1980年7月号の「月刊平凡」に1980/5/10の大宮スケートセンターでデビュー戦を飾ったレスラーのインタビューがありますので、引用します。
ダンプたち55年組の中で、出生頭、期待の新人たちです。
--------------------
メーンイベントの試合を 観戦するのも女子プロレスの魅力だけど、新人選手たちの育っていく姿を見守っ ていくことも楽しいことだよ。今月の女子プロレス新聞はそんな卵たちに注目!!
苦しいけれど努力あるのみ
●ジャッキーと新人選手大座談会
新人にとっては一生忘れられない試合であるデビュー戦を、 5 月10日、大宮スケートセンターで飾った女子プロレスラーの 卵たち。今月は半年ほど先輩である高橋三奈選手とともに、彼女たちの目標とする選手であるジャッキー佐藤選手に果敢にア タック、大おしゃべり大会を開いてもらった。
ジャッキー デビュー戦どうだった? おつかれさま。
師玉 もうなにがナンだかわか らなくなって......。
奥村 終わってホッとしてるん です。
高橋 川崎球場で行われた私のデビュー戦の時も、もう無我夢 中、試合が終わってホッとした のを覚えてるわ。
ジャッキー 私はマキちゃんと だったけれど、もう何も見えないし、何も聞こえないヒドイも
んだったよ。結果は引き分け。
伊藤 練習の時はもうチョット戦えると思ったんですけど。
ジャッキー 今までどんな練習をしてきたの?
伊藤 腕立てふせに腹筋、なわ跳びに受身、 シャドウなど、毎日午前2時間、 午後3時間とやってるんです。
ジャッキー 単調で大変でしょうけど、頑張ら なくっちゃダメよ。
北村 ハイ。
師玉 旅に行くとジャッキーさ ん達がコーチしてくれますけど、道場ではチョット甘えちゃって
奥村 一人とり残されていくみたいで・・・・・・ネッ。
ジャッキー あせっちゃダメだよ。その人その人の個人差はあ るんだから、練習の成果は必ず身を結ぶと信じて、プロレスが 好きだったら、努力あるのみ。
全員 ハーイ。
ジャッキー 欲をもって人の倍の練習をしなくちゃダメ。さあ 息ついたら練習をしましょう
全員 お願いします。
--------------------
このときのインタビューは、ジャッキー佐藤の他、55年組の奥村ひとみ、伊藤浩江、師玉美代子、北村智子(ライオネス飛鳥)となっています。
すでにスター候補は、ジャッキー佐藤とインタビューをしています。
一方で、松本とユウは、この大宮スケートセンターで2度目のプロテストをしており、そこでさらに落ちて、ダンベル100回上げたら無理やり合格という道を辿っていたと思います。
ここですでに期待の新人と、期待されない新人で分かれてしまい、期待されない新人は特にイジメの対象となってしまったようです。
もしここでジャッキー佐藤と松本がインタビューしていたら、松本は大喜びと緊張で「ハイ、ハイ」っていうのが精一杯になっていたかもしれませんね(^^)
このあたり、ダンプの本に記載ありますので引用してみます。
「おかあちゃん」より-------------
女子プロレスの寮は、事務所のビルの屋上に建てられたプレハブ造りの建物の中だった。そこに、わたしたち新人は、六人相部屋で暮らすことになった。生涯のライバル、長与千種、大森ゆかりらも同期でいた。
翌日から、練習が始まった。正直、練習はきつかった。
女子プロレスに入団した時から、わたしは落ちこぼれだった。他の人よりわたしは特別に体重が重いので動作がのろかった。
そのこと一つでもわたしは先輩たちの反感をかった。
わたしの動作がのろいのは、決してわざと遅くしているからではなかった。だが、どんなにわたしが一生懸命がんばっても、わざと遅くやってるようにしか先輩たちの目には映らなかった。
それだけで目をつけられて、わたしは人よりたくさんしごかれた。みんなは休んでいるのに、わたしは倒れるまで際限なく同じ練習をさせられた。リングの周りを体育館を、倒れるまで何周も走らされた。
どんなに喉がかわいても、決して水も飲ませてはくれなかった。先輩との練習はつらかった。いやでいやでしようがなかった。それがつらくて、数日で、ほとんどの新人たちがやめていった。ここでは先輩は絶対的な存在だった。 それで、毎日のようにしごかれた。足の裏の皮がベロリとむけて、なかなか癒えなかった。だからといって、容赦などしなかった。
「お願いします。教えてください」
そんなふうに聞きにいっても、誰も何も教えてくれない。
燃えてるタバコの火を手の甲に押しつけられたこともある。それがこわくて痛がると、ますますいじめはエスカレートしていった。
そして、痛がるわたしたちを追いかけまわしてはおもしろがった。
一番つらかったのは先輩にシカト(黙殺)されることだった。何か文句を言われる方がまだずっとマシだった。
ただオロオロと迷ってるばかりで、先輩の影にいつもおびえていた......。練習がつらいと、よく同じ年頃の女の子を見てはため息をついた。自分たちはどうしてこんな生活をしなくちゃいけないのか。だからといって、先輩たちに監禁されて、逃げようにも逃げられない状態にあるわけではも ちろんなかった。
「逃げたければ、いつでもどうぞ」
やめるのをとめたりなんてぜったいにしなかった。熱っていても、新人なんてかわりはいくらでもいるのだ。
新人の頃は、つらい思い出しか記憶にない。 お金もなければ、先輩のいじめから逃げ出す術もない。外で見るのと、内で見るのとではまったく大違いの世界だった。
しかし、ただつらいからというだけではやめられない。 やめたら、もうそれでおしまいなのだ。はい、ソレマデヨだ。何しろ親の反対を押し切って入って来た世界だ。ここを離れたら、もうどこへも行くところ がない。仕事もないし、家にも帰れない。
新人の頃、最初わたしは女子プロレスの宣伝カーの運転手をやっていた。女子プロレスは年間に二百本から三百本、巡業で全国をまわる。
「女子プロレスがやって来ますよ!」
巡業の先陣を切って現地入りし、宣伝カーで流してまわるのだ。
実はこの仕事、わたしは意外と気に入っていた。先輩のいじめもないし厳しい監視もない。田舎道で適当に宣伝カーを走らせておけばいいのだ。
一日中、同じテープを流して、朝から晩まで走っていた。女子プロレスから逃げまわるようにしては知っていた。
-----------------------------------
新人時代にイジメについて書かれています。
この話は「ザ・ヒール」や、マンガの「ダンプ・ザ・ヒール」にリアルに描かれているので、購入していない方はぜひ買って読んでみてください。
ちょっと面白いのは「宣伝カーは意外と気に入っていた」という点ですね。「宣伝カーまでしてプロレスラーになった」というから、宣伝カーは最悪だったのように思っていたのですが、ダンプ本人はイジメから逃げられるという点でマイナスには感じていなかったようです。先輩たちが引退するまで、いかに時間稼ぎをするかという点が重要だった新人時代だったので、先輩と顔を合わせない仕事ならばよかったのかもしれませんね。