
1980/5/12のデイリースポーツです。
松本のプロテスト合格のきっかけとなった、2リーグ編成の記事がかかれています。
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ビューティ軍団が真っ二つに なる。全日本女子プロレスでは、 従来のジャッキー佐藤を中心とするビューティ軍団(正統派)とブラック軍団(無法派)に大別されていたが、近く三軍団に編成替えする。さらに興行も二グループに 分け、同じ日に別の場所で興行、年に数回の合同興行で、ピッチマッチを行っていくという。
松本高司社長によると、興行グループを二つに分けるのは数年来の構想で、年間三百を超える試合数を消化しながらも、まだ地方の要請にこたえられない状況。
「二つのグループがあると、例えば同じ日に北海道と九州で試合ができることになる。毎日同じ顔ぶれが同じ練習をしていたのでは、いつまでも下の者は上の選手を越えられない"弊害"もある。二つに分けるとそれがなくなる」と説明する。
細かいメンバー分けは未定だがジャッキーを中心とするグループ、ナンシー久美、ルーシー加山を中心とするグループになるもよう。そして両グループを松永国松、同俊国の両常務が責任者として指導にあたる。またブラック軍団も二グループにして、外人選手とともにブラック軍団を結成、対抗していく。
この構想を進めるため、全日本女子プロレスではことし四月、プロテストで四人を合格させたほか、十日の大宮大会でも五人のプロテスト合格者を出すなど準備に怠りない。さらに十四日から三日間、伊東市で特別キャンプを張り 、新人を中心に鍛えていく予定になっている。
「東京、大阪、名古塾をはじめ全国の主要都市では"合同興行"を行い、両グループの成長力を競い合う形にしたい。もしこの方式が軌道に乗れば、これまで途絶えていた全日本女子プロレス選手権も可能性が出てきたと思う」と松永社長はいっている。構想が実を結ぶかどうかは、伊東の特訓にかか っているといえそうだ。
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5/10の大宮大会での5人のプロテスト合格が、松本のプロテスト4回目?の合格だと思います。松本はプロテストに3回も落ちてプロになることを断念しかけたところを、たまたまこの2リーグ制の選手増員で拾われたんですね。
デイリーの写真は4月のプロテスト合格者と書かれていますが、左側から2番目の大きな選手はどう見てもユウ(本庄ゆかり)に見えるのですが、ユウもおこぼれの合格だったはず・・。私の記憶違い?
5/14から3日間、伊東での合宿があったようで、それが下記の伊豆合宿だと思います。
志生野アナ「80kgの減量命令が入るだろうか」
志生野アナ「女子プロレスはビリになると-孤独(?)がつらい」
志生野アナ「松本かおりのペナルティは最後の上り坂を三分」
志生野アナ「飛ぶというよりは、やっと最後の1mが飛べた」
(よく聞き取れませんが・・)
ダンプ「うさぎ跳びが一番遅くてジャッキーさんに『どうした!?』とか言われて」
ダンプ「このとき初めて歩かないで最後まで走ったの」
志生野アナ「こんな選手がよく入ってきたなとビックリした」
おそらくそれまでの女子プロで、基礎的なうさぎ跳びが全然出来ない選手は、いなかったんでしょうねぇ。
志生野アナも、「よくこんな選手が入ってきた」と当時ビックリしたというから、松本のような選手は珍しかったんでしょう。
会社は松本を努力型のベビーフェイスにしようとして、このような放送をしたのかもしれません。
このあたりは平塚雅弘著の「ザ・ヒール」に詳しく書かれていますが、他の著からも引用してみます。
「ダンプ松本のマジだぜ!」より------
今でこそ「ダンプ松本」と言えば、泣<子も黙り、リングサイドのカメラマンは逃げまわるけど、このダンプちやんにも、つら<て長い下積み時代があったんだ。
会場で売ってるバンフレツトなんがでは、ダンプちやんは「昭和55年入門」となっているけど、ほんとうは、54年にこの世界に足を踏みこんでいたんだ。
というのは、実はダンプちやんは54年度の新人オーディシ∃ンに合格し、女子プロレスラーのタマゴのダマゴ(われながら、カワユイ表現だな!)になっていた。
ところが、オーディシ∃ンに合格しただけじゃ、あの華やかなリングに立てないのが、女子プロレスの世界。そのあと、プロテストに合格しなけりゃ、プロとしてリングでスポツトを浴びることはできないんだ。
その年、ダンプちやんは、このプロテストに見事落ちてしまい、1年間は練習生ということになった。<る日も<る日も、目黒の女子プロレスの道場で、クソおもしろ<も怠い練習をしてたもんだぜ。
道場といっても、そのころは今の道場みたいに最新鋭のトレーニングマシーンなんが、なかった。
事務所のいちばん奥の部屋が道場になっていて、あるのは、ベンチプレス台と腹筋台と小さなリングだけ。
1年間を練習生としてすごしたダンプちゃんは、どうしてもプロレスラーになりた<て翌55年の新人オーディションに再チャレンジ、そして、またまた見事に合格――。
なんて、かんたんに書いたが、このオーディシ∃ンに受かるってのも、たいへんなことなんだぜ!
でも、3月のプロテストには、またまた落っこっちまった。
この頃、松永社長やジミー加出マネージャー、松永俊国審判部長なんかに、「おまえはレスラー向きじやないな」とか、「早<あさらめて、熊谷へ帰れ」なんて、よ<言われてたもんだぜ。自分でも、「やっぱり、ダメなのががあ?」とか思ったしな。
でも、どうしても女子プロレスから離れたくな<て悩んでいると、社長が、「お前は、自動車の運転免許を持っていたな。そんなにこの会社にいたいのなら、営業部に入れ」と言ってきた。
まあ、この会社にいれば、いつがチャンスがあるがもしれないと思って、ダンプちゃんは営業の仕事をすることにしたのサ。
でも、神様はやっぱリダンプちやんを見捨てなかったネ。
この年、女子プロレスは、選手をAグループとBグループに分け、別々に全国をまわることにしたんだ。たとえば、Aグループは北海道がら、Bグループは九州から巡業する、というようにサ。
それで、レスラーを補強するために、5月だったがな? もう1度、プロテストが行なわれることになったんだ。
ダンプちやんは、このラストチヤンスで、ついに合格! (やったネー)
晴れて念願の女子プロレスラトになることができたってわけだ。
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