中学・高校時代 「ザ・ヒール」に掲載されていない写真、エピソード

今回はダンプ松本の可愛らしい中学時代、高校生時代を取り上げます。

 

写真はすべて当時の雑誌で掲載されたものです。

極悪時代の最盛期に掲載されたもの(1986年くらい)なので、当時はスクープだったと思います。

 

本名の「香」がそのまま具現化したような、本当に可愛らしい写真が多いです。

 

なお、他にも多くの写真が「ザ・ヒール」に掲載されています。幼少期から高校生時代の様子もあります。ぜひそちらを読んでいただけばと思います。(^^;汗

「ザ・ヒール」に掲載されていない当時の写真やエピソードを雑誌から紹介していきます。

 

中学時代

デラックスプロレス 1986年3月号より

 

この写真は中学3年生のダンプです。ご本人はこの写真は気に入っていない模様。

いかにも「運転免許証」の顔になっちゃってますもんね。この時代の中学校の卒業アルバムって、笑っちゃダメみたいな雰囲気だったと思います。

 

こちらは中学時代の水泳部の写真です。真ん中がダンプです。大会で入賞したときの賞状を手にしています。まだあまり太っていません(^^;

 

「おかあちゃん」より---------------------------

中学一年生の頃、マッハ文朱をテレビで見たときの衝撃はいまでも忘れられない。マッハ文朱は試合の前はにきらびやかな水着姿で、「花を咲かそう」を歌っていた。スターそのものだった。

テレビのブラウン管に釘付けになり、私は体が震えて熱くなるのをどうすることもできなかった。

"私もいつかプロレスラーになりたい!"

「おかあちゃん、私プロレスラーになるよ!」

「あ、そう。でもたいへんなんだよ。テレビで見ているよりね」

布団の綿入れの内職をしながら、母はあっさりと言うのだった。まさか私が本気でプロレスラーになりたいなんて思ってるなどとは夢にも思わない。

テレビではマッハ文朱が苦戦を強いられ、外人レスラーに血を流されていた。正直、怖いなと思った。でも練習すれば絶対に強くなれるだろう。勉強はダメでも、運動には絶対の自信があった。

それに強くなればおとうちゃんをやっつけられる。普通のまともな仕事をやるよりもたくさん稼げる。そうなればおかあちゃんを幸せにしてあげられる。おかあちゃんを幸せにできて、おとうちゃんをイジメられる。この2つの願いが同時に叶うんだ。

"そうだ、私にはもうこれしかない。絶対にプロレスラーになってやる!"

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高校時代

高校時代の松本香は、クラスの人気者だったそうです。なんとなくわかる感じがします。たぶん、男子にもモテたんじゃないでしょうか。

 

「おかあちゃん」より---------------------------

松本は子供のころから無類の目立ちたがり屋。物怖じも人見知りもしない。太陽にのように明るい性格。明日があるさ!とクヨクヨせず、一度決めたらまっすぐ突き進んでいく天真爛漫さ。そして内に秘めた激しい闘争本能。女子プロレスは、そんな私にまさにピッタリの世界だと自分で勝手に思っていた。自分を生かすにはこの道しかない、とまで思っていた。

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デラックスプロレス 1986年3月号より

おそらく高校の卒業アルバムだと思います。ポッチャリしていて可愛いです。

 

ちょっと分かりにくいですが、一番手前がダンプだと思います。勉強はあまり出来なくて、あれこれイタズラばかりしていたエピソードがたくさんあります。

 

私じゃダメかいより--------------------------------------

女だけの学校で、成績で目立たない子は化粧で目立とうとする。あるとき、自分はパーマをかけてみた。学校へ行ったら、思っていた通り先生が怒った。その言い訳はパーマをかけながら、ちゃんと考えていたもんね。

「きのう、おうちが火事になって、髪の毛が焼けちゃったもんですから」

それで先生が許してくれるとは思ってなかったけど。クラスの子たちにはこのセリフがウケまくった。それでマ・ン・ゾ・ク。先生よりも友達のほうが大切だったから。

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大宮開成高校のアーチェリー部の部長のときの写真です。きらめくような青春を送っていたのでしょう。ちゃんと真ん中に座っています(^^;

 

高校卒業のときのアルバムのカバーには自作のマンガが描かれている。コンドル斎藤とまではいかないが、実は絵を描くのも結構得意で、その後もファイトスペシャルの個人アンケート欄にもたくさん絵を描いています。昔はダンプさん自身が描かれているものだとは知らなかったです。

 

雑誌Friday 1986年5月号より

 

高校の修学旅行で、ダンプは友達とふとんの上でプロレスごっこをしていた。しかしその友達はダンプの腕を取り、ヘッドシザースにとらえている。これは凄い。ダンプの顔は苦痛に歪んでいる。

 

 

 

高3の体育祭では仮装行列で「浮浪雲」を演じたダンプ。ちなみに体育祭では選手宣誓をやったうえに、仮装行列でも一番いい役。ちなみに相撲取りの格好じゃですよ。皆から好かれていたのは、なんつーか包容力があったせいでしょう。下の絵はセリフをダンプ本人が付けくわえたもの。「AU」と書かれているので、高校の時はみんなに「アウ」って呼ばれていたみたいです。

 

高校生のときは「体育委員会」もやっていた。そのときの写真でしょうか。

本人曰く「ちなみにこのときすでに体重が70kg以上あったから、鉄棒やマラソンは苦手だったけど、生来器用だった。それに弁論大会でも大いに活躍したもんだ。高2のときのテーマが「青春に火を燃やせ」、高3のときが「母の愛情」、いやー、いまになってみると恥ずかしくなるけど、当時のアタシは大熱弁をふるったもんだよ」

 

このハッピは母親である里子さんの手縫いだそうです。

 

本人曰く「アタシは女子プロレスが大好きで、当時人気絶頂だった"ビューティ・ペア"の熱狂的信者。二人の名前を入れたハッピを着こんじゃ、女子プロレスの興行を追っかけていた。ま、典型的なミーハーグルーピーだったわけだ。ただ、見るだけじゃ満足できず、将来はプロレスラーになると固く心に決めていた。だから修学旅行でも就寝前にプロレスごっこをしなきゃ、どーしても安らかに眠りにつけなかったってワケさ」

 

 

 

本人曰く「つまり、アタシはたくさんの人に見られていると、たちまち元気になる子だった。だからみんなと写真を撮るときは、必ず目立つようなカッコして、真ん中にいるだろう」

この目立とう精神こそが、女子プロレス史上、稀有のパフォーマーになったと思います。

 

目立つ子だったがゆえの高校生時代のエピソートもあります。

 

私じゃダメかいより--------------------------------------

高校生のとき、ちょっと目立ってたんで、生意気に見られた。ある日、上級生から呼び出しがかかった。屋上に出ると、いるいる、ひとかたまりになって・・。その前に立たされた。中心人物らしい一人の上級生が、腕を組んでのけぞってる。

「おまえ、目立ってるぜ! タイマン張ろうか?」ってのけぞり上級生が言った。タイマンってのは、1対1のケンカのこと。

<ちっちゃくなったら、いけない。負けちゃうかもしれないけど、ここは大きく出るしかないな>

そう思った。それで「はい、やります」って言って、一歩前へ出た。

そしたら、のけぞり先輩が、後ずさりしちゃった。びっくりした顔しちゃってさ。

<マジにやる気はないな>ってわかったから、もう一押し。

「早くやりましょう」

そう言って、もう一歩、前に進んだ。こうなったら全員相手にやるっきゃないなっていう気で・・。

捨て身の戦法がきいたのか、上級生たちは向かってこなかった。

「今日のとこは許してやる」

のけぞり上級生の捨てゼリフで、いっせいに背中をみせて去っちゃった。

ひとり、ふたり・・数えてみると、13人もいた。一つ間違っていたら、13人とケンカするはめになってたと思うと、ゾーッとしたもんね。

けど、このとき、女のケンカって、こんなもんなんだなって思ったの。

こっちが小さくなってると、相手はつけこんでくる。ケンカするなら相手より大きく出ることさ。

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女子プロレスラーは恥ずかしがり屋や、人前でパフォーマンスをするのが苦手な人が多い印象です。同期ではライオネス飛鳥や大森ゆかりがアピールが苦手だったのに対し、ダンプ松本と長与千種の2人は、自己演出や表現に群を抜いた才能がありました。持って生まれた才能でしょう。他のスポーツと違って、"プロレスラー"という特殊なスポーツに、どのような能力が必要なのかが、見えてきますね。