
AJWW 1982 ミミ萩原 vs 松本香 室蘭市体育館
VHS Pro-WrestlingさんのYoutubeより
(AI HD動画です↓)
今回は、1982年の室蘭市体育館で行われたミミ萩原との一戦を見ていこうかと思います。
松本は1980年に入門して主にB班に所属、そこでのイジメや下積みの苦しい生活が続いたようです。1981年は徐々に先輩も引退しつつありますが、試合になかなか出られない日々が続いたようです。当時の細かい試合結果の記録を持っていないので、松本がどのくらい試合に出ていたのか分からないのですが、2班体制については、当時長与千種が語っていますので、そこから参照してみます。
プロレス取調室より--------------------------------------------
聞き手「長与さんは2軍に落とされたこともあるんですよね?」
長与千種「ああ、"Bコース"ですね。全女があまりにもお客さんが入らなくて経営難のとき(1980年頃)、苦し紛れなのか分からないけど、『2班に分かれて全国回ったほうがお金が倍入ってくるんじゃないか』という考えて、Aコース、Bコースに分かれて巡業していたことがありました。でもコースの組み方に難があって、ジャッキー佐藤さんがいるAチームは都会を回って、Bチームのほうは田舎とか離島とかでやらされるんで、どうしても動員数に差が出てくるんです。そうするとBチームが赤字になって、Aチームの儲けがBチームに喰われるという。それで1年ちょっとやって、また一つに戻ったんですけど、その1年でAチームとBチームとでは凄く力の差が生まれたんです。Aチームに行った人はテレビ撮りが入ったりするんで、テレビに慣れているけど、Bチームはそういう経験がないので余計差がついちゃったんです」
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女子プロレス物語より-----------------------------------------
55年組の第四期生として入門した飛鳥、特別推薦の千種と大森、プロテストに受かった松本、ユウは新体制で別々の道を行く。
ジャッキー佐藤が率いるA班に、横田、飛鳥、大森らが入った。ナンシー久美が長となったB班には天神マサミからデビル雅美に改名したばかりのデビル、それに千種、松本、ユウがいた。このA班、B班の色分けははっきりしていた。千種が言う。「A班は女子プロマットの主導権を握るだろう有望選手が集まり、私たちB班はどちらかというと、落ちこぼれ組でしたからね」と。それだけにB班の落ちこぼれ選手の反発はすごかった。毎日旅先で「A班に負けるな!」と厳しい練習が続いたのである。「百発のボディースラムなんてしょっちゅう。毎日体がガタガタでしたよ」と千種。スリムな千種にはかなりこたえたようだ。この厳しい練習に、新人たちのほとんどが耐えきれなかった。結局オーディション合格9名のうち最後まで残ったのは飛鳥ひとり。推薦組は大森と千種。それと苦労してレスラーの切符を掴んだ松本、ユウだった。わずか一年で新人は脱落し、二班体制は興行の急増で中身が薄くなり、新鮮味を失った。約一年で解散に終わった。一方で厳しい特訓でふるいにかけられた選手に、筋金入りのプロ根性と技術をつけさせた。
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1981年になると、松本はベビーフェイスかヒールか、どちらを選択、または会社に強制されることになるのですが、この件については2つ、別の意見があります。
「ザ・ヒール」より----------------------------------------
デビューしたもののアンコ型ということもあってか、会社側の方向性はなかなか定まらなかった。自分はファン時代からヒールになりたかった。この時期にはヒールになりたいという確信は確固たるものになっていた。
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プロレス取調室より--------------------------------------------
聞き手「悪役の池下ユミさんとかどうでしたか?」
長与千種「池下さんは全然フランクな人で私は憧れていました。デビルさんにしてもマミ熊野さんにしても、格好いいなと思う瞬間がたくさんあったんですよ。だから私はとにかく悪役になりたかったんです」
聞き手「内部に入って見たとき、本当にカッコいいのはヒールのほうだったと?」
長与千種「私の中ではそうでした。だから何があってもヒールって思ってて。新人はある日、最終的にジャッジメントの日がくるんですよ。会社から呼ばれてヒールになるかベビーフェイスになるか分けられるという。その時私はヒールになりたかったんですけど、ダンプさんは歌って踊れるベビーフェイスをやりたかったんです」
聞き手「可愛いねぇ、ダンプちゃん」
長与千種「ホント、かわいいメルヘンババアなので」
聞き手「だから後に桃色豚隊で夢をかなえたんですね」
長与千種「で、私が最初に呼ばれて『私はヒールに行きたいです』って言ったら、『お前の顔でどうやってヒールができるんだ、バカ野郎! お前はヒールじゃない、ベビーフェイスだ』って言われて」
聞き手「問答無用なんだ」
長与千種「それで私が落ち込んで出てきた後、ダンプさんが心配そうに社長室に入ってって、数分後に同じように出てきて、『アンタ、なんて言われた?』って聞いたら『「おまえの身体で何がベビーフェイスだ!」って言われた』って(笑)。『じゃあ、もうお互いバイバイだね』って言って。」
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長与千種の話と、ダンプの話がごちゃごちゃとなって微妙に経緯が違いますね。これは長与千種が勝手に思っていたことなのかもしれませんが。
また、会社側は松本を「ジャンボ宮本のようなベビーフェイスにしたい」と考えており、そこを「ヒールにいきたい」と自分から志願したというのも、どこかの記事で見たこともあり、ご本人たちの記憶も曖昧なので、どれが本当なのかは実際にはよく分かりません。
そんなこんなでヒール役として決定した松本ですが、これがまた思うようにうまくいきません。
「ダンプ松本のマジだぜ」より-----------------------------
さて、本格的にプロレスラーになったダンプちゃんだけど、リング上では、イマイチ、パッとしなかった。とりあえずヒールだったんだけど、ジャッキーさんにあこがれて女子プロ入りしただけに、ワルになり切れずに、中途半端だったんだな。
試合では自分でもかなり悪どいことをやっているつもりだったけど、客から見ると、ユーモラスに写ったこともあったらしい。『なんでここでお客さんが笑うんだろう?』 なんて考えたりしたもんな。すべて中途半端だったんだよなぁ。
ダンプちゃんばかりでなく、ユウもそうとうな落ちこぼれだった。なんたって、プロテストで基本の腕立て伏せや腹筋ができなくて、不合格になりかけたのをムリヤリ社長に「どんな方法でもいいから、バーベルを100回あげたら合格にしてやる」と言われて、なんとかやってのけてオマケで合格したんだから。
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(GORO 1988年5月号より 初期のヒール軍団。左から松本、伊藤(?)、池下、本庄ゆかり)
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さて今回の試合は1982年のものなので、池下引退後、初期のデビル軍団に入っている頃の松本です。
まだペーペーの頃だったと思われるので、水着も物凄いシンプルです。
紫の短いガウンは誰かのオサガリなのか。またバンダナをしているあたり、少しミーハーな感じなのでしょうか。アシックス(?)の紺の水着はあまり特徴がなく、本当に競泳用といった感じで、初々しいです。まだこの時期は派手な水着を着ると、先輩から面倒なこと言われたのかなと推察されます(笑)
志生野アナ「今日は新人の松本香選手が相手であります」
志生野アナ「ともかく体をみただけで強そうでしょ?」
ゲスト「相手の松本選手はミミの倍くらいありますね」
相手が当時トップスターのミミ萩原です。しかもテレビ撮りです。
ミミの試合で前座ということはないでしょうから、後半の四試合目とか、セミファイナルでなくともそれなりの位置での試合だったでしょう。松本は、人から見られれば見られるほど、燃えるタイプなので、この試合には相当に気合が入っていたと思われます。
解説「松本はテレビであまり登場するチャンスがないので、今日は張り切っているんですよ」
志生野アナ「そうなんですか。しかも今日はミミ相手ですから、これは自分をアピールする大きなチャンスですよね」
この発言からも、1981年~1982年にかけて、松本香の試合がテレビ中継されることはあまりなかったと思われます。この年代は、ビューティペア時代も終わり、不定期の日曜日にフジテレビで放映される程度だったので、万年前座だった松本の試合が放映する枠はないでしょう。
だかにこそ、この試合はアピールするチャンスを会社にもらったといえます。
さて、ロープ際での体重をかけた踏みつけのあと、ワイルト香月の協力もあって、場外でのボティアタック。そしてここぞとばかりに放送席に乱入して人間絞首刑。池下直伝でしょうか。
なかなか盛り上がってきました。しかし植田コミッショナーが「ダメだ」「リングへあがれ!」と文句ばかり言っています。この方はプロレスをわかっていない人なので、なにかアンバランスでしたね。
ミミがロープに上がる所をさらに踏みつけ。空中戦のあとも、ミミのお腹に反則攻撃を入れたり、目の中に手を突っ込んだりと、ジワジワと悪いことをしていきます。
この時代のプロレスは男性(オッサン)中心のアダルト路線、ミミはあちこち触られて大変だった時代です。ミミは場外に叩きこまれると、大喜びで男性ファンが寄ってくるような構図もありましたね。
会場では松本に場外戦をもっと期待していたのかも?
(この頃から胸板へのキックもこなせる松本)
志生野アナ「ケイコさんなんかご覧になって、この大きいほうの松本選手はどうですか?」
ゲスト「やっぱり憎たらしいですよね」
志生野アナ「憎たらしい?」
この頃はまだ自身のアピールをあまりしていなかったので、松本は"愛嬌がある"というよりは、ヒールで巨漢の一選手とぐらいしか見なされていない、何の特徴もない選手という感じでしょうか。
日本人の中では群を抜いて大きな体でありましたが・・。
ミミの体重だと人間風車に持ち上げることすら難しく、ここは松本のタイミングも合わせないと難しい感じです。試合的には松本の技があまりなく、地味な反則に終始していますね。
途中でライオネス飛鳥が見かねてサポートに入っていました。ダイビングニードロップからネットブリーカーx2、ここからミミの反撃が始まるか!? といったところで、松本得意のボディアタックがさく裂。
強烈です。ミミの細い体が吹っ飛ばされていきます。
これだけでもアピールに十分なると思います。
その後、コーナーでのヒップドロップを敢行しますが、ミミがうまくよけて、その後ミミのバックドロップの一撃で沈められてしまいました・・。
1982年代ということもあり、新人時代の貴重の試合映像です。テレビ撮りがほとんどない時代の松本の試合ということもあり、懸命な姿が素晴らしいです。
松本はこの試合は汗びっしょりという感じですが、1983年代になると体力がついて、試合慣れもしていきます。
印象してはやはりまだ新人という感じで、技の種類も少なく、スピード感がありません。体重にモノを言わせた踏みつけ系の反則や場外での攻撃といったものが目立ちます。
テレビ撮りでしたが、自分の特徴であるボディアタックや体の大きさを見せることはできました。しかし、なかなかお客様の印象に残るか、と言われると難しいところです。
この時期、すでに同期のワイルド香月、マスクド・ユウは、6人タッグなどでメインに入ってきている時代です。松本はヒールの中では出遅れています。その出遅れの原因はこの試合を見ると分かります。ヒール役ですが、太っていること以外に、これといった特徴や、ヒールとしてのぶち壊し度が目立ちません。
ワイルド香月やマスクド・ユウのほうが、ワルに関しては思いっきり度が高いです。
プロレスの技も、松本の場合はまだまだ不足しています。特に空中技がないため、お客様へのアピール度は下がってしまいます。松本と対戦させるならば、別のヒールと対戦させたほうが・・という会社の思惑になってしまうと思います。
会社から「お前はともかく太れ!」と言われて太ったものの、それだけで一体どうすればよいのか・・。この点で松本にも会社にも明確な指針がなく、迷っています。一体どうしたら事態が好転するのかも、見えていません。周囲からの期待もなく、「この子はこのまま終わってしまうんだろうな・・」という感想を当時の人達は多く持っていたようです。
しかし、松本は苦労していたお母さんを幸せにするために、絶対にここで終わることはできませんでした。何をどうしたらよいのか分からないまま、この先もしばらく、模索の時代が続きます。