1983/1/8熊谷市体育館で第4代全日本王座をライオネス飛鳥から奪取

ダンプは極悪同盟結成以前の新人時代は、マンガの「ダンプ・ザ・ヒール」を読むと、からっきしのダメレスラーで無冠のイメージが強い。しかし、実は全日本シングル王座の4代目チャンピオンなのである。wikipediaにきちんと「第4代チャンピオン 松本香 1983年1月8日 熊谷市体育館」と書かれている。

 

 

デラックスプロレス 1988 5月号

 

実はこのタイトル防衛戦にたどり着くためにけっこうドラマがあるので記載してみます。

 

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ここからは「ダンプ松本のマジだぜ」から抜粋して書いてみます。

 

「1981年1月19日に、地元の熊谷市民体育館で、ドンのデビル雅美にシングルで挑戦することになった。デビューして半年ちょっとの状態で、デビル軍団のドンに挑戦するという、果敢なシングル戦である。リングサイドをみると、地元ということもあり、知っている顔、顔、顔・・。

「ブザマな格好はできない」。さすがに緊張したが、結果は13分20秒、両者リングアウトの引き分けで合った。デビル雅美に勝てなかったが、負けもしなかった・・!!  デビル相手に一歩も引かなかったという意味では、自分にとって大きな自信につながる一戦だった・・」

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その後、55年組みはライオネス飛鳥とマスクド・ユウが全日本王座を争い(別のブログに記載)、ライオネス飛鳥が全日本王座に。長与千種は全日本ジュニア王者になり、さらに同期の大森ゆかりは、ミミ萩原と組んで、WWWAタッグチャンピオンになっていた。

 

1983年初頭時点で、ベルトを所有していない55年組は、落ちこぼれ組みの松本&ユウの2人だけになってしまった。

 

 

しかし、1983年は松本が徐々に実力を発揮する年になる。

先のブログでも書いたが、1983/1/4の後楽園ホールで、ライオネス飛鳥vs長与千種の対決があった。この対決は長与千種は引退覚悟で、これまでにないストロングスタイルを前面に押し出した試合で、この試合で評価を得て、やがてクラッシュギャルズの結成となった。

この試合でライオネス飛鳥は、途中で時間にして1~2分ほど左ひざを脱臼してしまい、レフリーのジミー加山がヌタけヒザを戻していたのである。

 

↑これが問題のライオネス飛鳥の脱臼シーンである。

 

リングサイドにいた松本はこの様子を見逃さなかった。

1983/1/8 地元の熊谷市体育館で松本は、後の宿敵となるライオネス飛鳥と全日本王座のタイトルに挑戦する。この時の様子を「ダンプ松本のマジだぜ」から一部抜粋する。

 

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「昨年デビルに挑戦したときと同じように、熊谷市民体育館のリングサイドには友人一同がズラリと並んでいた。同期の飛鳥には負けられない。それにダンプちゃんはこの試合、絶対に負ける気がしなかった。なぜかって? その時の飛鳥の決定的な弱点を握っていたからだ。

この日の4日前の後楽園ホールで飛鳥が長与と対戦したときに、飛鳥のヒザがヌケていたのを見逃していなかったのだ。飛鳥はこの日、とてもタイトルマッチをできるようなコンディションではなかった。試合前に痛み止めの注射をうったらしい。『飛鳥のヒザは時限爆弾だぜ!!』 そんなこんなでダンプちゃんは技らしい技はほとんど出さず、ひたすら飛鳥への左ひざへの徹底的な攻撃に出た。ヘッドバット、パンチ、踏みつけ、この3つだけで十分だった。

案の定、飛鳥は5分も経たないうちに足を引きづりはじめた・・!!  飛鳥は焦り始め、当時95kgあったダンプ様をブレーンバスターで投げようとした、しかしそのときにまた飛鳥のヒザがヌケてしまった。

あわててジミー加山が飛鳥のヒザを入れ、試合が再開された。飛鳥は立つのもやっとだった。

しかし試合時間20分を経過しても飛鳥は向かってくる。『あんなヒザでどうして闘えるんだ!?』 さすがのダンプ様も驚いた。ぶちのめしても、飛鳥は立ち上がってくる。なぜなんだ・・。

ダンプちゃんはちょっと不気味になって、飛鳥のヒザをさらに攻めまくった。25分が過ぎた。このタイトルマッチは30分一本勝負。もう時間がない!!  ダンプちゃんはついに竹刀を手に握った。地元の熊谷だけでは使うまいと誓っていた禁断の竹刀をである。

28分17秒、飛鳥はついに立てなくなり、レフェリー・ストップでダンプちゃんが第4代の全日本王者なった・・!!

しかしその時

『松本、きたねぇぞ!! そんなにしてまでベルトが欲しいのか!』 

『飛鳥よくやったぞ、それに引き換え松本は・・!』 

『熊谷市民の恥!!』

数々の罵声がダンプちゃんの耳に突き刺さっていた。地元だというのに誰も『おめでとう』と言ってくれない。これが悪役ってことなのか・・!? 

このときダンプちゃんは割り切った。『悪役は悪役。いい格好もなければ、地元なんてもないんだ』 いまの極悪の信条を心に誓ったのもこの夜のことだった。」

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(女子プロレス物語より)

 

(ザ・ヒールより)

 

この水着は変わった感じですね。人造人間キカイダーみたいに半分ずつ色が違います。カラーで見てみたいです。

 

リングスターVol.17より

 

デラックスプロレス 88/4月号より

 

なお、このベルト獲得は会社にとっては番狂わせだったらしい。

「女子プロレス物語」より-----------------------------------------

ライオネス飛鳥の初の挫折

1983年開幕の後楽園ホールで、千種を下して全日本王座を初防衛した飛鳥が、デビル軍団No.2(?)の松本香にベルトを奪われた。フロント陣は困った。ここ数日の客の入りで低迷脱出に光が差し始めてきた途端の番狂わせ。人気の中心・飛鳥の敗北は興行面に悪影響を及ぼさないとは限らないからだ。

飛鳥は弱点の左ひざを松本に集中的に痛めつけられ、これにデビル軍団の若手が加勢し、関節を脱臼した。ためにレフェリー・ストップとなりTKO負け。新人王、ジュニア王者、全日本とトントン拍子に出世街道を走ってきた飛鳥が初めて味わう挫折感。その夜、巡業先から帰ると部屋に荷物を放り投げ、ベッドでひとり泣きじゃくった。

「ベルトの重さをあの時初めて感じました。ジャッキー佐藤の再来と皆に言われ、チヤホヤされているうちに自分もそんな気持ちになって・・・」

涙が枯れると、真夜中にも関わらず電話器を取った。埼玉県蓮田の母親・幸子さんだった。だが飛鳥は幸子さんの応答にしばし言葉がでなかった。

「もしもし、トモちゃんか・・?」

この日、熊谷の会場で幸子さんは観戦し、控室でがっくりと肩を落とす我が子の姿を見て、深夜の電話を予感していたのだ。「お母さん、プロレス辞める・・」飛鳥は力ない声で言った。もう何度、この言葉を聞いたろう。女子プロ入門に大反対していた幸子さんはそのたびに「ウン、いいよ。いつでも帰っておいで」と答えてきた。華やかな影で過激さを増すリングでの戦い。我が子の「辞めたい」の気持ちを聞くたびに、母は安堵の気持ちを抱いたという。その夜も同じだった。

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また、全日本女子プロレス社長の松永高司は「松本を売り出しに決めたのは、全日本王座のチャンピオンになってから」と話していることから、この試合は松本にとっても大きな勝利(地元でのブーイングという代償はあるものの)だったに違いない。

 

松本にも飛鳥にも、この全日本王座の試合は、大きな節目となった試合のようです。

松本はレスラーとしての自信を得ました。一方の飛鳥は初めての挫折を味わいました。

ちなみに飛鳥はケガを何度もしていますが、この試合だけは「ケガで、もうダメかなと思ったのは、ダンプにヒザをやられたときだけです。あのときはスランプも重なっていたから」と話している。

 

このようなドラマがあり、ようやく勝ち取った初めての王座ベルト。ここから松本は王座にふさわしく選手になるよう、堂々とした試合をするように心がけていた感じがする。

ただ、それが良いのか悪いのかはまた別の話になります。

 

この後の話は以下を参照ください。

 

 

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