
(2022/10/14 FullHD動画を追加)
AJWW 1984/1/4 後楽園ホール ダンプ松本 新春マラソン大会 松本のレアインタビューの巻
YoutubeのEvito-X-Puroさんの動画から
44:00くらいから餅つき大会のインタビューがあります。
(↓AIでフルハイビジョン化したものです)
この年は、リングネームが「松本香」から「ダンプ松本」に変更された年。
冒頭の新年の選手紹介では、デビル軍団として、
山崎→ダンプ(松本香改め)→マスクドユウ→タランチェラ→デビル の紹介順。
氏家「続いては、松本香改め、ダンプ松本」
志生野アナ「今年リングネームを"ダンプ松本"と変えました」
志生野アナ「お馴染み松本香選手であります」
志生野アナ「84年は彼女にとっても勝負の年」
この紹介順で行くと松本は4番手。マスクドユウよりは微妙に格下に見られていたということになりそうです。
志生野アナが「84年は彼女にとっても勝負の年」と言っていますが、まさにそれが実現した年ですね。このあと、まさかダンプ松本として年末には世間をにぎわせる知名度を得るようになるなど、このとき誰が想像したでしょうか。
恒例の正月マラソン大会。
今年は完走。(途中でズルしてタクシーを使ったかは不明)。最下位。
最下位とは言え、体重100kgで10km(8km?)を走れ、そのあとバテていないだけでも凄いんじゃないでしょうか。相当な動けるデブ(失礼だが)です。というか、100kgあるようには見えないのが不思議です。動けるからですかね。
その後は恒例の体重測定。
女性なのに体重測定をテレビ公開で堂々としてしまうのが全女らしい。
このときはダンプとユウが100kgでトップ。ユウは身長が173cmあるので、ダンプのほうが太っている感がある。ここの画面掲載でもデビル軍団の序列順だと思うので、やはり松本は4番手かな。
続いて餅つき大会のインタビュー。
おそらく「ダンプ松本」にリングネームが変わって、笑顔で志生野アナにインタビューで答えたのは、これが最初で最後です。
というか、84年以前でも松本のインタビュー映像自体を見たことがないので、きちんとした松本香のころの受け答えをしている映像は、これくらいしかないのかもしれません。
ちなみにミッキーマウスの服を着ていますが、確か部屋にもクラッシュファンから拾ったミッキーを飾ってあったという記事をどこかで読んだので、好きだったんでしょうか。
ダンプ「餅つきしまーす」
志生野「ねぇちょっとちょっと」
このダンプのインタビュー、かわいいですよね。
志生野アナもかなりダンプのことは可愛がっていたようで、
志生野「リングネームはなんて変わったの?」
ダンプ「ダンプ松本です」
志生野「なに!?」
ダンプ「ダ・ン・プ!!」
志生野「分かりやすくていいや」
ダンプ「本当はスポーツカーなんですけどね。お客様がダンプ松本っていったんで・・」
志生野「もう体重も100kgになったし」
ダンプ「200までがんはりますよ」
全体的に見て思うのは、他の選手がカメラ目線で話していないのに、ダンプは常にカメラ目線を入れてくるところ。志生野アナではなくて、きちんとテレビを意識して(無意識かもしれないが)いる点が他の選手と全然違います。このころからテレビでどう目立つのか、彼女は理解していたんだと思います。
さらに志生野アナが突っ込んでいますが、この即興ギャグというか、アドリブの強さもダンプの長所です。他の選手はどこか恥ずかしがり屋って感じがするけど、ダンプはマイクを向けられると強いんですね。
これが後の笑っていいともや、鶴太郎とのタイマンテレフォンに繋がってくると思われます。
なお、リングネームが「ダンプ松本」に変更された件について、自著から引用してみます。
「おかあちゃん」より------------------------------------------
「松本香」 これが私の本名である。「香」なんて、自分なのにまるで自分じゃないみたいだ。普通の女の子っぺくて、ふわふわしてて、可愛らしそうで正直私は気に入っていた。
しかし、それがリングネームとなると優しすぎて、強烈なインパクトがない。悪役としての威圧感に欠けているのだ。
自分は悪役で行くことに決めた。でも新人の頃はなかなか悪役に徹することができなかった。あまり悪いことができなかった。悪役なのに、「悪役じゃない」と言われた。
このままじゃあ、いけないと思った。どうせ悪役やるんなら、これまでで一番すごい悪役になってやろう。池下ユミや阿蘇しのぶ、デビル雅美を超えてやろう。しかし、私はその後、何年間も鳴かず飛ばずだった。
プロテストに合格して4年、私は23歳になっていた。
「お前もそろそろ人気が出てきているし、どうだ、新しいリングネームを考えないか?」
ある日、事務所の社長に言われた。
そんな折、埼玉の深谷で巡業の時だったと思う。
「ダンプカー!!」
試合の時、突然リングの私に向かって、どこかのおじさんの怒鳴るような声が飛んできた。
「おい、ダンプカー、しかりせんか。おまえはな、カオルなんていうやさしいに名前でやってたんじゃ、人気でねぇぞ。その迫力があんだから、ダンプって名乗れや!」
もちろん、大勢のお客さんの中からの声だから顔もわからなかったけど、それを聞いた社長が、試合後、私を呼んでこう言った。
「ダンプカーか、うん。面白いな。"ダンプ"ってのもいいな。ダンプカーみたいな顔してるからな、おまえは。ダンプカーではおかしいから、"ダンプ熊谷"ってのはどうだ」
「"ダンプ"は好きだけど、私"ダンプ熊谷"ってのはいやだ。大林組とかあるじゃない。ビルなんか建ててる、会社の工事現場から駆け付けた本物の泥だらけのダンプカーみたいじゃない。ヤダよ。せめて"ダンプ松本"にして」
その時から私は「ダンプ松本」を名乗ることになった。プロテストに合格して4年目、チャンスの兆しが見えていた。
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続いマスクド・ユウとタランチェラののインタビュー。
タランチェラは志生野アナに質問されると無言でどこかに立ち去ってしまいます。
こんなときまできちんとヒールを演技するタランチェラは本物だと思います。もしくはもう引退が決まっていて、話したくなかったのかもしれませんが・・。本当にタランチェラは惜しい人材でした。
そしてマスクド・ユウのインタビュー。
志生野アナ「時にはマイクを外して美味しい物を食べてみたいと思うでしょ?」
マスクド・ユウ「そうですね」
タランチェラは無言で去る。
志生野アナ「困りますね、あのお姉さんは」
マスクド・ユウ「でも今年はもう2人で、あと松本と3人で悪の限りを尽くしたいと思います」
志生野アナ「おいおい・・」
この発言だと、3人でデビル軍団を脱退して、悪の限りを尽くしても良さそうなのだが、タランチェラは参加せずに引退となった。もしタランチェラの引退がなかったら、引き続きデビル軍団は存続して、極悪同盟の結成は遅れたか、無かったかもしれないです。
上記が真実は確認のしようがないが、結果的にメガトンコンビの誕生ということになったわけだ。
ちなみに、松本香時代やマスクドユウ時代のテレビでのインタビューは非常に貴重です。極悪同盟結成後の1984年後半まで、この2人は一度たりとも、雑誌などの報道系からインタビューを受けたことがないとデラックスプロレスに書かれています。
デラックスプロレス 1985年4月号より
「『極悪同盟』として再生されるまで、ダンプもクレーンもただの1回として取材を受けたことがなかった。つまり、取材の対象外。存在感のまるでないヒールに甘んじていたのだった。以前、あまりにマスコミ陣の無視に、見かねたジャガー横田がロッシーに「1回ぐらい取材の場を与えてあげても・・」と同情したほど。これは2年前くらい前の話である」
試合は
〇ジャガー ダンプ
立野 vs ペギーリー
中野恵子 スーザンスター×
まだまだこのころはチェーンを手にぐるぐる巻いて、殴打する感じ。
髪の毛はメッシュ程度、デビル軍団の一員のため、そこまで派手ではありません。
鎖をもってぐるぐると回していますが、「今年から悪に徹する」と志生野アナが話しています。
以下に詳細を記載しています。