前回の続きです。次はライオネス飛鳥編です。
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白紙の状態だったら、スナオに吸収していたけた。
プロテスト合格。すでに大きな目標を持つ。
●オーデイションに合格した飛鳥は、東京にある親戚の家から、目黒にあるジムに通う。練習生としての生活がスタートした。
ミスター郭さんがコーチで、トレーニングは、受け身を中心にして、ランニングやナワ跳び、腹筋とかの基礎トレーニングでした。ダンプ、 ユーも一緒に練習してました。
時間にして、3、4時間かな。もちろん毎日毎日。大変でしたねぇ。でも、自分でやりたいことのためだったから、ちっとも苦痛じゃなかった。
●入門以前、千種がプロレスにあこがれていたのに対して、飛鳥は、光り輝くピューティにあこがれていた。プロレスに興味をもったのは入門してからだ。
千種は、プロレスに入ってみるとイメージが違ってたなんてよくいってるけど、私は白紙の状態だったから、見るものも、きくものも、"あ、こういうもんなのか"ってそのまま受けとめてたから、スナオに吸収していけました。
●格闘技の経験がまるでなかった飛鳥が、短期間のうちに″ジャッキー2世″とよばれるようになったのも、こんなところに原因がある。当時の先輩で今も残ってるのは、ジャガーさん、デビルさん、堀さんだけです。
ジャガーさんが中堅で、デビルさん、堀さんが、今の山崎、立野くらいの立場でした。練習生のころは、先輩から直接教えてもらうことはなくて、教えてもらったのは、プロテスト以後ですね。
●昭和55年3月、プロテスト合格。練習してきたことのおさらいとスパーリング、それに、どこまで意地を張れるかをみられました。
12人受けたんだけど、合格は4人。ダンプとユーは落ちて、引退したタランチェラが入ってました。その年にプロテストに合格したのは、私に、ダンプ、ユー、千種、大森なんだけど、プロテストの同期っていうと、もういないことになるんですよね。
でもそのころは、同期っていも意識はなかった。みんなライバルって感じでした。他人のことなんて考えてる余裕がなかった。プロテスト合格したあと、デビュー前にエキジビションで、新入同士が5分間の試合をやってたんだけど、キック入れてでも勝ってやろうと思ってたもん。今よりも、気が強くて、思い切りがよかったみたいです。
●このころにはすでに、飛鳥は大きな目標をもっている。
入るまでは、ただジャッキーさんにあこがれてただけだったけど、入ってからはね、WWWAのシングルのベルトをとるまでは、負けちゃいけない、やめないって思ってました。
あこがれのジャッキーさんさえ、おそれおおくも、″入ったからには、この人を抜いてやろう"なんて。最初のころは、あ、そばに寄っちゃった、なんて感じだったんだけど。私は、自信持ちすぎですね。
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●そのジャッキー佐藤に、飛鳥は直接コーチされる。
ジャッキーさんとは2年くらい一緒でした。旅に出た時なんて、ジャッキーさんが先頭になって教えてくれるんですよ。
あと、細かいことがジャガーさん。恵まれてたと思います。でも、先輩たちは厳しかったですよ。
プロレスに対する姿勢そのものが。なんとか私たちに教えこもうとして、私たちも求めようとして、死に物狂い。そのころのこと考えると、今の新人たちにも、もうちょっと意欲をもってもらいたいと
思う。
技はもちろん教えられたけど、いちばんうるさくいわれたのは、受け身と声。大きな声を出せって、しょっちゅううるさくいわれました。
ほかには、しつけ。先輩たちの衣装をきちんと管理しとかなかったら、ものすごく怒られました。
●オーバーにいえば、″生きる希望″をあたえてくれたジャッキーに、プロレスラーの初歩を教えられた飛鳥は、たしかに恵まれている。今になって飛鳥が語る、ジャッキー評。
身近にいたから、みないでいいとこまでみえちゃったから……。正直いって、こっちが気をつかわなきゃいけない、むずかしい人だった。でも、偉大な人だったと思います。
やっぱり私にとっては、雲の上の人でしたよ。スパーリングさえ、私なんかにはやらせてもらえなかったもん。
順調なスタートをきった地元でのデビュー戦
●やがてデビュー戦をむかえる。プロレスラーとしての本当の第一歩は、55年5月10日。
プロテスト以後の、選手の伸びによって日が決まるんです。タランチエラは腰を痛めてて、デビュー戦はおくれました。
●会場は、地元・大宮スケートセンター。
デビュー戦の日をきいたのは、10曰くらい前かな。地元でしたからね、キック入れてでも勝つって、強気でした。水着はトミー青山さんからもらったブルーので、コスチュームは、昔、ジャッキーさんが着てた、ブルーで、スパンコールがついたやつ。新人はお金ないから、よくそうやって、先輩からもらってたんです。
●デビュー戦は、飛鳥のほか、奥村、師玉の3人でリーグ戦。
1試合めが、ホントにキック入れて、ボディスラムで3カウント。2試合めが、地獄固めでギブアップ勝ち。夢中でした。でも考えてみると、大宮で勝ったのは、過去にこれだけなんですよ。今ごろになって、地元だと知らないうちにプレッシャーを受けてるみたいですね。
●とにかく順調なスタートをきった飛鳥は、その後も順調に伸びてくる。千種が、いまだにこだわり、バネにしてきた地方巡業も、A班に入った。
A班なりの苦労っていうのはあったんですよ。でもみんな、けっこうエリート意識もってたのは事実です。AとBには無言のライバル意識があって、合同で興行やる時も、選手同士、日もきかなかっ
たし、練習も一緒にはやらなかったから。
でも私、あんまり気にしなかったんですよ。すぎて通れることは、見向きもしない、物事、あんまり気にとめないところがあるから。気にしはじめるとすごく細かいことでも気になるのに、このへんの性格のギャップが、自分でもおもしろい。
それに、この当時は、自分でやらなければならないことで、もう目一杯でしたから。
自分の試合をやるでしょ、1試合めか2試合めあたりに。そのあとセコンドにつくんです。でもこれが、クタクタに疲れてるからつらくて。そのほかに、リングのそうじとか、売店に出たりとか、先輩たちのガードやったりとか。水着を着たまんま会場内歩いて、パンフレット売りもやったんですよ。試合が終わったら先輩たちの衣装の片づけもあったし、余計なこと考えてるヒマなかったです。
●それでも順調にきた……というと、やがて飛鳥は、「そうじゃない」と反論しなけれはならなくなる
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ホントは、表に出ない壁にぶつかっていたんです。
いちばんすごいケガはモモがえぐれた切り傷
●飛鳥と千種のデビューは、3か月しか違わない。しかし、千種は当時の飛鳥を、ため息をつきながらながめていた。「ジャッキー2世っていわれて、そのころから取材もされてました。勝てるとか、抜きたいとかじゃなくて、ただもうすごいなってみてました」と千種はいっている。
デビューして何か月もたたないころの試合で、すごく印象に残ってるのがあるんです。
そのころまだ、A班、B班にわかれてたから、試合の相手は大森が多かったんですね。どこかいなかの、バス停の前の特設リングみたいなところでやった試合でした。
私がキック、大森が体当りしかなくて、20分引き分けだったんです。そしたら、ジャッキーさんも、レフェリーやってた柳下さんも、みんなが、すごかった、いい試合だったってほめてくれるんですよ。私たちには、何がよかったのか、全然わからなかったけど、そう快感はありました。だいぶあとまで、いい試合だったっていわれました。
●この試合の印象は、関係者にも強く残った。それがしだいに飛鳥を苦しめることになる。そのため飛鳥は、2年以上も、爽快感を味わえなくなってしまう。
その苦しみに比べれば、ケガも、"笑い話″になる。
いちばんすごかったケガは、2年めの時。たまたま千種とタッグを組んでて、前座で試合やった時です。
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リングから落ちて、場外やってて、机の角にドサっとぶつかったんです。それがすごくとがってて、モモのところが、こぶしの大きさぐらいかな、えぐれちゃったんです。
セコンドについてたジャガーさんが、「みせたら、試合ができなくなると思った」っていってました。だから、ヒザに巻いてたサポーターを引っぱり上げ傷をかくしてくれたんです。でも、チラっとみえたんです。中が白くて、脂肪がとびちってて、気持ち悪かったぁ。
試合はすぐに負けちゃって、柳下さんにおんぶされて控え室につれてってもらったんだけど、泣きながら、「またレスリングできますか」つていってました。
結局、救急車で運ばれて、9針ぬいました。でも、あとで笑われました。「ただの切り傷で、トモはプロレスができなくなるって泣いてた」って。自分でもゾッとするようなケガしても、まわりはこの調子ですからね、ケガには強くなるし、感覚がふつうの人と違ってきますね。
デビュー前、ヒザのじん帯が伸びちゃって、立てなくなっても、最初に思うのは、「あ、ヤバイなあ、明日、試合できるかなあ」。学校の時の友だちと会ってて、「今日、頭を2針ぬってきた」とかいうと、みんな「エーッ」っていって絶句しちゃう。
ケガで、もうだめかなあ、と思ったのは、ダンプにヒザやられた時だけですね。あの時は、スランプも重なってたから。
お母さんの暖かい忠告「冬は必ず春となる」
私、新人の時は、技なんかののみこみが早くて、ポンポンときてたんです。全日本ジュニアのベルトとったのは、56年1月なんですよ。
●先輩・川上紀子から堂々と勝ちとったベルトだった。心境は複雑でしたね。先輩に勝っちゃったこともイヤだったし、まだかけだしでしょ、ベルトが重たくて、それもイヤだった。
●そのころから、飛鳥のファイトぶりについて、まわりからの注文がつくようになる2年めに入ったってこともあったと思います。会社の人や先輩から、「機械的な仕事をしてる」とか「試合に感情移入がない」「技に気持ちがこもってない」っていわれるようになったんです。
私にも悪いとこはあったんです。 少し慣れたためか、試合をやってて、「あ、今 日は声がよくでてるな」とか、へんに余裕もつことがありました。
でも、だめだっていわれるようになっ てからは、一生懸命やってたんですよ。 それなのに相変わらず、「一生懸命さが伝わらない」っていわれる。
「余裕がありすぎて、ジャンボ鶴田のプ ロレスみたいだ」っていわれて、「うるさいやつ」って思ってたけど、だんだん、 自分でもわかんなくなってきちゃったんです。
●デビュー間もない時期に、 飛鳥は みんなの印象に残る好試合をしてい る。やればできるはず、という期待 が、飛鳥にのしかかってくる。 苦しい思いすれば、何か変わるかもし れないと思って、ものすごく練習したこともあった。 でも試合はちっとも変わらない。 クラッシュ組むまでこんな状態が続きました。
●その間に、ヒザを痛め、全日本選 手権のベルトも失う。
やめたい、と思ったの、この時だけです。 お母さんにも、そう話しました。 ふだん、お母さんは、「やめて早く帰っ てきなさい」っていってたんです。 私、"やめろ”っていわれたらやめない。 っていうんだけど、私が、ホントに弱気 になって「やめたい」っていった時、お母さん、こういったんです。「今は冬の状態だけど、ガマンしてれば必ず春がくる。 今やめたら、あとできっと後悔するよ」 って。
お母さんも、私たちにわかんない苦労してきた人だから、「冬は必ず春となる」 って、よくいってたんです。 あたりまえのことばなんだけど、自分の状態にてらし合わせて、その時ばかりは、「あっ、そ うなのか」 って思いました。
●飛鳥は、"順調だった"とか"トントン拍子できた"といわれると、 ホントは不気嫌になる。
千種のは、病気とか、形のあるスラン プでしょ。 私のは、形のないスランプ。 形は順調でしたよ。試合には勝ってるし、 タイトルもあるし。でも、ホントは、表に出ない壁にぶつかってたんです。ただなんとなくいる存在みたいでした。
それに私、表情にださないで、自分の中にしまっちゃうんです。 まわりでみてて、イライラしてたんじゃないですか。 この世界、順調だとおもしろくないでしょう。取材されてても、そういわれた ことあります。
でも、千種みたいなタイプもいれば、私みたいなタイプもいるんですよ。
飛鳥にとっても、クラッシュ・ギャルズは、“きっかけ”だったのだ。
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