1985/2月 中野恵子が「ブル中野」(ブルドーザー中野)にリングネームを変更

(2023/1/14 有田大会の動画からブルのリングネーム変更時期を追加)

 

1985年2月に「中野恵子」から「ブルドーザー中野」にリングネームを変更しています。

 

 

重機シリーズということで、ダンプカーから始まり、クレーン車、ブルドーザーとなります。そもそも「クレーン」もなぜそのような名前が付けられたのか、詳細が書かれている本を見たことがありません。明らかに「ダンプ」だから同じ重機で「クレーン」にしたのだとは思いますが・・。

(こうなると、深谷の試合でワンカップを飲みながら、「ダンプカーだ」と叫んだオッサンは、極悪重機グループの生みの親ですね・・)

 

なお、半刈りについては以下のブログに記載しています。

『1985/2/4 有田大会 中野恵子が半刈りにされる ヒールとしての覚悟を決める』いよいよ中野恵子が動き出します。 この時期、中野はヒールとして踏ん切りがつかない日々が続いたようです。理由としては、依然としてヒールをやりたくないという心があ…リンクameblo.jp

 

リングネーム変更の経緯については、ブル中野著の「金網の青春」に詳しく書かれているので一部引用します。

 

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私が半刈りになって十五日目。私のリングネームがきまった。 

「ブルドーザー中野」
これが私のリングネームだった。ダンプカー、クレーン車に続く、 ブルドーザー、という意味があった。髪は刈り、リングネームがつ き、私は正式に極悪同盟の一員になった。リングに上がって、
「ブルドーザー中野」とコールされる。なんとなく強いレスラーのように 聞こえる。その三日後のテレビ録りの日、何故かブルドーザー中野 が「ブル中野」になっていた。イヤとか気に入ったとか思うほど余裕がなかったし、もう私の頭の中は試合のことばかりで、リングネームのことなど、気にしていられなかったというのが本当のところだ。

 

髪を刈ってからの私は、気持ちもプロレスも徐々に変わってきた。 今まで前半戦の試合にしか出られなかった私も、毎日メイン・イベントに出場できるようになった。
プロレスを始めて三年目で、毎日メイン・イベンターとして試合 に出られるなんて、中々考えられないことだ。試合は先輩達にやらっぱなしだったが、十七才で髪を半刈りにした勇気を、会社がかってくれて、ダメでもメイン・イベンターとして扱ってくれていたの だろう。

 

女子プロレスは第三次黄金時代が来たといわれていた。クラッシュ・ギャルズとダンプ松本の人気が出て、お客さんが毎日、三千人、四千人と入っていた。
三千人、四千人のお客さんが見ているなか、一番すばらしい試合をしてくれる選手が集まるメイン・イベントに三年目の私が出場できるのも、この髪のおかげだった。
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私は「ブルドーザー中野」とコールされたテレビ映像を見たことがないのですが、半ハゲにしてから15日程度してから「ブルドーザー中野」とコールされていたと書かれています。

そしてブルの当時の記憶によると、3日程度経過してから、「ブル中野」とコールされたとのことです。それがテレビ撮りの日と書かれています。

一方で、「全日本女子プロレス40年史」や週刊プロレスでは、2/4の有田大会で「ブル中野」に改名と書かれています。

また、1/26の竹原大会では「中野恵子」とリングネームがなっているので、1月中に「ブルドーザー中野」というリングネームはついていないと思われます

 

上記の情報を整理すると、

[女子プロレス史、デイリースポーツ、週刊プロレス]

・2/4 [有田大会] 半刈りになる。

・2/4 [有田大会]「ブル中野」にリングネームが変更となる。

 

[金網の青春、他の雑誌などを合わせた情報]

・2/2 [諫早大会] または2/4 [有田大会] 半刈りのお披露目。

・2/18[大阪府立体育館]ぐらい 「ブルドーザー中野」にリングネームが変更される。

・2/21 [本庄大会] ぐらい テレビ撮り 「ブル中野」にリングネームが短縮される。

 

ちなみに、2/4の有田大会のYoutube動画を発見したので確認してみました。

志生野アナが話しています。

 

志生野アナ「最近は中野恵子選手も極悪同盟に新人選手として参加いたしまして」

志生野アナ「なんですか、今日はご紹介出来ないと思いますけども」

志生野アナ「ブル恵子という名前に変えるんだそうでして

志生野アナ「このあたりまた今シーズン非常に面白くなってまいります」

 

このような話しています。

ということは、2/4の有田大会で「ブルドーザー中野」、「ブル中野」または「ブル恵子」という名前に変更の動きがあったことが分かります。

「今日はご紹介できない」というのは、おそらく正式なリングネームが決定しなかったのではないかと思いますが、試合がないから「紹介できない」という意味かもしれません。

でも、2/4の時点でリングネーム変更の動きはあったようです。

 

私が思うに、半刈りはダンプがその場の思いつきで実行したと思います。リングネーム変更となると、会社を通さないと出来ないはずなので、断髪してすぐにリングネームが決定されず、「ブルドーザー中野」か「ブル恵子」か、「ブル中野」か、なかなか決まらなかったんじゃないでしょうか。

しかし「ブル恵子」は志生野アナの勝手な間違いな感じもしますが・・。(^^;

 

2/2~2/4に半刈り、その後はリングネームの決定に時間がかかり、どこかの時点で、「ブルドーザー中野」となるが、長すぎるのでテレビ中継用に「ブル中野」になったように思います。

 

とはいえ、ブル様ご本人の記憶も正しいとは言えないので、本当のところは分かりません。

 

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また、当時の様子を、山崎照朝著の「女子プロレス物語」から見ていきます。

(この本は脚色が多いため、けっこう話を盛っていますので注意)

 

 

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「クラッシュ人気の爆発で、ビューティ以来の応募者を集めて行った「'85新人オーディション」は無事終わり、60年の新春シリーズは後半戦に入った。ダンプ率いる極悪同盟の猛威はますますすさまじくなっていった。この勢いに乗ってグングン自信をつけていったのが前年(59年)10月に極悪入りした中野恵子だった。
 

「なぜかダンプさんやユウさんには共鳴させるものがあるんですよ」と中野。中学時代は"番"を張った中野のことだ。思ったことをそのままリングにたたきつけられる極悪殺法は″地″で勝負できる魅力あるものだったのだろう。
ダンプに″ワルの特訓″をやられ、ヘタな試合(極悪らしからぬ試合)をしたら控室でダンプのビンタを食らう。だが中野は「まだ勉強不足ですから」と自己批判、決してダンプを恨まなかった。その根性にダンプがホレた。

 

「中野はきっと大きく育つと思ったからね。最初が肝心なんで厳しくしたんだ」とダンプは当時を回想する。そのかいあってか、極悪入り後、中野は急激な成長をとげる。

「中野がものすごく伸びてきたよ、先生」。新春シリーズを前にしての国松常務の中野評だった。シリーズに入って、その成長ぶりはダレもが認めざるをえないほどはっきりしてきた。その中野は開幕リングで小松を下し全日本ジュニア王座の初防衛をすると、その場でベルトを返上、山崎五紀の持つ全日本王座取りに名乗りを上げる。
 

この闘志はやがてフロント陣に認められる。次期シリーズでスタートするシングル総当たりリーグ戦に同期の小松、小倉、永友を出し抜いて大抜てきされる。「いまはセコンドについても、ダレとぶつかっても怖くない。思い切り何でもやれるようになったから」と中野。極悪No.3のポストに自信をもち始めた。
 

その中野がボスのダンプに忠誠を誓うかのように変身する出来事が2月4日の有田大会で起きた。リングネームをブル中野に改名、しかも髪の毛を左半分ソリ落としたパンクヘアで登場したのだ。
このあまりにも奇妙で、しかも思い切った変身ぶりに、ド肝を抜かされたのはファンばかりではなかった。
中野のヘアスタイルを初めて控室で見たダンプさえも、一瞬声を詰まらせ、ア然としたのである。

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赤字の部分は脚色でしょう。

ダンプが髪を切ったのに「控室で見たダンプが声を詰まらせて唖然とする」ことはないでしょうし、最初から中野が「ダンプさんやユウさんに共鳴するものがある」というのも、ないでしょう。何しろヒールになりたくなかったわけですからね(^^;

とはいえ、当時は情報も少なかったので、こんな感じで報道されていたという事実ということで、面白い読み物ではあります。中野が「いやいやヒールになった」なんてことは1985年には書けないでしょう。