1985/2/4 有田大会 中野恵子が半刈りにされる ヒールとしての覚悟を決める

いよいよ中野恵子が動き出します。

 

この時期、中野はヒールとして踏ん切りがつかない日々が続いたようです。

理由としては、依然としてヒールをやりたくないという心があったようです。

それまでは「恵子ちゃん、頑張れ」、「パンダちゃん」と応援されていたのが、極悪同盟に入門すると同時に誰も応援してくれなくなったので、仕方ないでしょう。

さらにこの時期、とある男性のことが好きになり、プロレスか男性かで悩んでいたと「金網の青春」に書かれています。

 

そんな中野を見かねて、ついにダンプが最終手段に出ます。

そのときのやりとりは有名ですが、以下のライガーとの対談で詳しく話されています。

 

 

ブル「私がプロに徹していなかったので、髪の毛剃られました」

ライガー「髪の毛を剃られた?」

ブル「『可愛い子ぶってんじゃねぇ!』って感じで、『そんな風にいい子ぶってるのはダメだ』ということで」

ブル「モヒカンにしろってことで剃ったんですけど、たぶん途中で飽きちゃって『お前は半人前だから半ハゲでいい』ってことになって」

ライガー「凄くカッコ良かったじゃん。似合ってたじゃん」

ブル「あの当時は先走りすぎてるんで、全然うけなかったんですよ」

ブル「女性で当時に髪を剃るってあまりなかったから、ひどかったですね、扱いが」

記者「それはカメラが回っている所で剃ったんですか?」

ブル「違います。地方の体育館で、地下の控室でやられました」

ライガー「突然? 意思に関係なく?」

ブル「突然ですね」

ライガー「どういうアレだったか分からないけど」

ライガー「ダンプさんも殻を破らないとダメだという、半分くらいは先輩としての親心だったんじゃないの?」

ブル「そうですね。それがあったおかげでもう帰れなくなったんですよ」

ブル「もう帰る所がなくなって、その時に初めて生きる時間はリングの中だけと決めたんですね」

ブル「私生活は一切要らない、幸せは一切要らないと思って、リングの中にいる時だけ生きようと初めて思えて」

ブル「そのときにはじめてプロレスラーになれたんだと思います」

ライガー「それはいくつの頃?」

ブル「デビューして2年目なので17歳です」

ライガー「17歳でそれ考えるか?」

ライガー「俺、近所の原っぱにエロ本探しに行ってたよ!」

 

 

当時も今も斬新な、モヒカンならぬ半分ハゲのスタイル。ダンプ引退までは"ヌンチャク"とともに、中野の代名詞となるスタイルです。当時、中野はこれを受け入られざるを得なかったのでしょうが、この髪形でやり通すことに決めた中野は素晴らしいと思います。

 

このヘアスタイルの何が凄いって、"覚悟"、その一言に尽きます。

 

極悪同盟のメンバーの中で、ダンプに次いでアバンギャルドなスタイルです。この髪形は偶然出来たのか、本当に狙ったのか分かりませんが、ダンプは芸術的な才能があったと思います。当時は洋楽のパンクバンドにも女性の刈り上げ、しかもモヒカンや半ハゲなんていなかったと思いますし(私が知らないだけかもしれませんが)、最先端を行く髪形です。当時のダンプは、"どうやったら目立つか"という感覚が、極限に高まっていたのはないでしょうか。岡本太郎もびっくりです。

 

ところで、半ハゲスタイルにされた日なのですが、「女子プロレス40年史」や「デイリースポーツ」などで、「2/4の有田大会で中野恵子が半刈りスタイルとなり、ブル中野に改名される」と記載されています。

※「デイリースポーツ」の記載は、「全日本女子プロレス黄金伝説」のダイナマイトギャルオさんのブログで調査された記事を参考にしています。

 

ところが当時の「週刊セブンティーン」に、1985/1/22~2/20までのクラッシュの日記のコーナーがあり、その記事によると、中野が半刈りにされたのは、2/2の長崎の諫早大会であるように書かれています。

 

(週刊セブンティーンの記事 長与は半刈りに爆笑したらしい)

 

おそらく2/4の有田大会がテレビ撮りだったため、「半刈り」スタイルのマスコミへのお披露目が2/4の有田大会だったのかと思います。もしくは、2/2はただ刈っただけで綺麗に整えていなくて、2/4はテレビ撮りのため綺麗にした半刈りだったのかもしれません。

 

とはいえ、長与の証言も確実とはいえないため、本ブログでも2/4の有田大会から中野恵子が半刈りスタイルになったとしておきます。

 

※ただし「セブンティーン」の記事は、連続性をもって書かれており、しかも当事者たちの毎日の記録で2/2の諫早大会で「中野が半刈り」、2/4の有田大会で「ケガ人オンパレード」の話が書かれているので、私は2/2のほうが正しい感じがします。


(上写真:1985年1月 普通の極悪化粧  下写真:1985年2月 わずか一か月後には半ハゲに・・)

 

このときの中野の心境を、ブル中野著の「金網の青春」から引用します。

 

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プロレスと髪と恋
 

まず、私がヒールとしてダンプさんにすすめられたことは見た目を変えることだった。
初めに髪だった。髪を金に染め、肩くらいの髪にチリチリのパーマをかけた。ソバージュというより、カーリーヘアーみたいだった。

初めての化粧はクレーン・ユウさんがしてくれた。目をつり上げて書き、 口は黒くぬる。カガミを見た時自分自身のあまりの変わりように、涙が出た。
新人ながら悪くなる前はお客さんから、「恵子ちゃん、頑張れ」と 応援してもらえるようになっていたが、一転して誰も応援してくれなくなった。 近寄りがたい人になったのだろう。 自分でさえフッ切れないのだから、いいプロレスもできなくなってしまった。

 

それがフッ切れるきっかけは、もっと恐ろしい形でやってきた。

 

私がヒールになって、二ヶ月くらいたった。その時の私はヒールになったことで落ち込んでいた。
そんな時、友達と久しぶりに会って食事をした。 友達は自分の友達を連れてきていた。いろいろ話しているうちに気が合って、その人と仲良くなった。私は仕事がいそがしいので、電話で毎日のように話した。私は、その人のことが好きになっていた。私は三禁をこの時やぶりかけていた。

 

その人は私に「プロレスやめて結婚しよう」 そう言ってきた。 心からその人が好きだった。今すぐやめて、その人のところへ行きたかった。
プロレスとその男の人のことで悩んだまま、17才の二月、九州巡業に出た。その日バスの中でダンプさんたち先輩に
「パンダちゃ ん(私)、モヒカンにしなヨ!」そうけしかけられた。 モヒカンだったら髪をソリ込まなければならない。泣きだしたかった。 そんなことをしたら、もう外も歩けない。そんなことを考えていると、ダンプさんが「小松が悪役になりたいんだってヨ。悪役になれるならモヒカンにするって。そしたら、あんたは小松より 下になるんだゾ!」 小松が悪役になる? 小松より下になる? モヒカンにしなければ私はダメになってしまう。私は、ダンプさんに答えた。

 

「自分が髪をソリます」
 

私はその時の一言で、男の人のことも、ヒールへの迷いもフッ切れた。

もう、まよわない。恋もしない。プロレスしかないんだから...............。 そう思った。
その日の会場の控室は、コンクリート打ちっぱなしの部屋ですご く寒かった。2月だった。

 

「切るヨ」そう言われて、イスにすわった。覚悟はきめていたものの、 いざとなると決心がにぶる。でもここまできて逃げられない。 ダン プさんの持ったハサミが左の耳の上に入る。長かった髪が落ちる。 みるみるうちに下のコンクリートの上に髪がちらばる。私はその時少しだけ、ピンクに髪をそめていた。ダンプさんに言った。「そのピンクのところを少しでいいんで残してください」


私のささやかな願いをかなえてもらった。 控室には鏡もない。今、 自分がどんな姿なのかさえも分からないまま、二十分くらいがすぎ た。私の髪は半分はツルツルの状態になっているようだった。そこでダンプさんが「モヒカンはどこでもいるし半刈りは珍しいし、これでいいじゃん」と刈るのを中断した。その言葉で、結局、半刈りの中野恵子が誕生した。
その後、その日のホテルでまじまじと自分の顔を鏡で見た時、涙 が自然にボトボト流れた。止まらない。
十七歳で髪を剃り、恋も捨てて、私はプロレスにかける決心をした。この涙は絶対にムダにするもんか。絶対・・。

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上記の内容をいま読むと、当時の全女の凄まじさを感じます。(^^;

縦社会の恐ろしさとともに、ダンプがいかに中野をヒールとして一人前にしようか、考えていたことが分かります。「小松が悪役になりたいんだったヨ」の部分は、おそらく中野に半ハゲを決心をさせるためだったのでしょう。(実際は分かりませんが、細身の小松は、ダンプの眼中には無かったと思います)

 

この後、中野がブレイクしたから良いですが、もし中野が鳴かず飛ばずで辞めてしまったら、ダンプは一生恨まれそうですし、ダンプも中野の覚醒に賭けていたことが分かります。

そして、中野の「17歳でリングの中だけで生きようと決心した」覚悟にも脱帽です。

私には真似できません。

 

 

参考:全日本女子プロレス黄金伝説 ダイナマイトギャルオさんのページ

『二日だけのリングネーム、ブルドーザー中野』ブルの自伝によると85年2月の九州巡業中に頭を半刈りにされ、15日後にブルドーザー中野とリングネームがつき、三日後のテレビ撮りでブル中野に変わっていたそうだ。…リンクameblo.jp