1985/5/21号の週プロに記事がありましたので引用します。
ユウの引退記事は本を整理すると、色々と出てきますね・・(^^;
(ブルがダンプのセコンドで大ハッスル)
(もはや下手なホラーよりも怖いです)
試合後に小倉に手当をしてもらうクレーン。
「ぶるちゃんねる」でこのときの話がありましたが、
フジテレビのディレクター(D)に、
D:「お前、引退するのか!?」
C:「え、誰が引退するの?」
D:「お前だよ!!」
C:「し、知らない・・」
という会話をしたみたいですね。
しかし控室はもっとゆっくり寝られる感じなのかと思いきや、床の上で狭いところだったんですね・・(^^;
--------------------------
春なのに、お別れですか・・・
4月26日の夜、ときを同じくし て2人のレスラーの引退が突然、 発表された。マッハ隼人はUWF の聖地・後楽園ホールのリングで 引退試合に勝利を収め、観客と全選手の暖かい拍手で送られたが、 片や、クレーン・ユウの場合は悲惨だった。
ダンプ松本クレーン・ユウ。 極悪同盟同士の対決はシリーズ最後のTV収録が行われた鹿島大会注目のカードだった。
レフェリーは阿部四郎。 もう1 人の"極悪"ブル中野はダンプの セコンドについた。もはや結果は見えていた。中野がダンプに加勢し、ユウの額は鮮血に染まった。 客席からはクレーン・コールと ユウ・コールが入り混じって起こるほど、ダンプ&中野のダーティー・プレーは凄絶を極め、観客の憎悪を買った。恐らく、ユウが自分へのコールを耳にしたのは、 これが初めてだろう。
ダンプはマイクをつかむと、ユウに向かって「お前とは今日でお別れだ!」と"絶縁状"を叩きつけた。1度闘っただけで仲間割れになろうとは、誰も予想しなかったに違いない。それとも、ダンプとユウの間には"何か" 冷めたものがあったのだろうか...。
実をいうと、ユウの引退は、本人の知らぬ"TV中継"のなかで発表された。だからといって、ユウは会社の決定に文句をつける気はない。なぜなら、かねてからユウは引退を真剣に考えていたからだ。この試合の2日前だった。 ユウは「もう悔いはありません。 腰も悪いし、引退したいと思っているのですが...」と社長に申し出たという。
それが、この日の発表に なるとは...。 ユウは語る。
「クラッシュからWWWAタッグ を奪ったときは、レスラーになっ て初めてのタイトルだったし、嬉しかったけど、あんな勝ち方だったから...。 それよりも思い出に残っているのは、大宮で飛鳥と全日本選手権を争った試合(57年5月 15日)。あのとき、誰もが飛鳥が勝つと信じていたので、私なりに練習もして、30分の時間切れに持ち込んだ。 飛鳥のバックドロップを何10発も食ったけど、私はフォ ールされなかった」
ところで、引退試合は、どうな るのだろうか?
「それはこっちが聞きたいくらい。 私ね、いまさら盛大な引退試合な んか望んでいないし、やってもくれないでしょ。だけど、試合がなくても、もちろんテレビ中継がなくても、そんなことは構わないか ら、ただテン・カウントのゴング だけは聞きたい。それがプロレスラーとしてのケジメだと思う・・・」
ユウの抜けた穴を埋めるのは、 この日、ユウを襲った中野しかいない。最近は、その働きと存在感 においてユウを食う勢いにある中野だが、どうやらそうなる日を待っていたようにも思えるのだ。 最後にユウはポツリとつぶやいた。 「私がいなくなれば・・・」。
--------------------------
またまたかなりのウソが混じった週刊プロレスの記事のようです。
ユウの引退は"TV中継"で植田コミッショショナーによって突然発表されたのは間違いないようですが、その前に「引退を真剣に考えていた」という部分は疑問が残ります。
「ぶるちゃんねる」で会社から「ベビーに行くか?」という話し合いをしたと語っていますから、プロレス自体を引退する気は毛頭なく、「もう悔いはありません・・腰も悪いし引退したい」の部分はロッシーか誰かの創作だと思われます。
飛鳥との全日本選手権争いが一番燃えたというのは本当かもしれませんね。
「私がいなくなれば・・」のあとは「ブルが活躍するでしょう」と記者は言いたげな感じがします。
しかし、カラー写真をみるとユウは想像以上の大量出血です。肩まで血に染まっています。
ダンプが対戦した選手の中で、一番血まみれにしたのは、もしかするとこの試合のユウかもしれません。それだけユウは実力者であり、凶器も使いますから、ダンプも本気でやらざるを得ない試合だったのかもしれません。(もっともファンに手を振るユウに対して、ダンプのイラツキ度がMAXに達していた可能性もありますが))