1985/7月号のデラックスプロレスに、鹿島の試合について記載がありましたので引用します。
この内容は本当か!? という疑惑記事でもあります。
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女子プロレス"ナイスギャル"クレーン・ユウ エッセイ
花束も音楽もいらない。自分に区切りをつけるために"引退のテンカンウント・ゴング"だけは聞きたい・・・。
なぜ引退の日が突然訪れたのか?
その日、私がUWFの後楽園大会 の取材を終え、編集部に戻ってきたのは、夜の10時。4月26日-東京のツツジが満開に咲いた頃だ。
この日、 UWF後楽園大会ではマッハ隼人の引退式があった。
選手にかつがれ、後楽園ホールの 客席を奥までまわり、満場の拍手を 受けてリングを去ていったマッハの姿は、とても感動的であった。
「いい引退式だったな...」
私はそんなことを思いながら、ぼ んやりとタバコをふかしていた。そこへ電話のベルが鳴り響く。 電話は、女子プロレスの茨城県鹿島大会、ダンプ松本対クレーン・ユ ウの試合を取材に行ったカメラマン からであった。
そして、彼は私にこう告げたのだ。
「クレーン・ユウが引退しました!」
「えーーっ!!」
私はイスから飛び上がり、眠気が一ぺんに醒めるほどの衝撃を受けた。
「何で? まさか、ユウが...!?」
電話を切ってから、私は動揺して こんがらがった頭の中を整理しよう と、必死になった。
まず私はユウがレスラーを引退したがっていたのは知っていた。 そして、それが、決して遠い日ではないことも知っていた。
しかし、それが・・・何故その日が突然訪れたのか? 私にはその答えが どうしても見つからなかった。
「これはユウに直接聞いてみるしか ない!!!」
私はそう決めると、残っていた仕 事を大あわてですませ、目黒の女子プロ事務所にすっ飛んでいった。深夜0時。 茨城から選手を乗せたバスが到着した。ユウはいつもと同じ表情で、いつもと同じ黄色と黒のトレーナー姿で、ゆっくりと出て来た。
「ねえ! ユウ! やめちゃったんだって!!!」
私はユウの顔を見た時、胸が詰ま って、どうしてもこの言葉しか出て こなかった。
私も女子プロレスの取材を始めて、 まる5年になる。ユウとも、顔なじみになって6年目になった。だが、ユウの「やめたい!」とい う日頃の言葉だけは、どうしても信 じられないでいた。
何故ならユウの試合は、女子プロ レスラーの試合として、まだまだ一級品だったからである。
力を込めて爆進する姿は、たとえそれが、悪役としての試合ぶりであ れ、 観客を引きつけずにはおかなかった。
だから、それほどの試合をするユウが、引退を覚悟しているなんて、 思えるはずがないではないか。
だが、ユウの言葉は、そんな私の 感情を、すべてフッ飛ばすほどの衝撃があった。
20歳でやめようと思っていたが・・・
「そうらしいね。私、知らなかったんだ」
「えーっ!!!」
私はその日、驚きの声を2度あげ ることになってしまった。
「私、2日前にね、会社にやめたい って、はっきり言ったの。会社も、私の気持ちはわかってくれたと思ったけれど...。その日がまさか今日になるとは、私も全然知らなかった...」
とユウ。
「テレビ放送では『ユウはレフェリーに転向』って言ったらしいよ」
そう私が言うとユウは力を込めて 「私、レフェリーやりたいなんて一言も言ってない。 レフェリー専任になるくらいなら、私、もうここに いたくない!」
それは、怒りと悲しみの混じった 寂しい声だった。
「私はオーディションやプロテスト に何度も落ちて、17歳の時、やっと 選手になれたの。このことでは、私は会社にもみんなにも、とっても感謝している。同僚の子達に励まされ て、私も泣きながらバーベルを挙げ て、やっと合格したのよ。
だけど、しばらく選手を続けていて・・・。
"私にはこの仕事は長く続けられな い。 ハタチになったらやめよう" って決めてたことも、本当なの。 でもちょうど20歳の頃...。私は覆 面をかぶってマスクド・ユウに変身。 ヒールの選手として、やっと少しだけど、世間の人に知られるようにな って。それにプロレスのおもしろさがわかりだしたのもこの頃だから、だから私、もうちょっとやってみようって思ったんだ」
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今から2年前...。当時のユウはデ ビル雅美、タランチュラ(引退)などと共に、デビル軍団を結成。まだダンプ松本というレスラーは存在せず、 松本香(かおる)という"はにかみ屋のヒール"とペアを組み、ユウは中堅選手の座を確保していた。
別格であったデビルを除き、タラ ンチェラ、ユウ、松本香は55年女子 プロ入門の同期生。
しかし、タランチェラが3人の中 で頭ひとつリード・・・といった状況の 中で、タランチェラより重く、年が2つ若いユウの方に注目する関係者は、かなりいたのだ。
「デビルがいつの日か引退したあと、悪役のトップはユウになる!」
当時、この言葉を疑う者は、誰もいなかった。
しかし現実には、松本香がダンプ松本になり"はにかみ"を捨てトッ プスターに躍り出たことによって、 ユウは一歩下がり、自らをダンプの タッグ・パートナーとして、位置づけるようになっていく。
これは、ユウのファンにとってはとても残念なことであった。
だが本人は言う。
「私、欲がないからね」
ユウの性格は、それを"自分は損 な役まわりだ"と感じさせることは それほどなかった。それよりも最近は、後輩のブル中野を見ていて、(なんとかこの子を育てたい!) と、ユウは思うようになっていたのだ。
中野を極悪の星にするためなら・・・
「中野が髪を剃り、極悪になりきっ たことはね、あの年頃の女の子には 口では言い表せないほどの決心だっ たはずなの。初めのうちは自分の髪形をお客さんにヤジられて、ひとりで泣くこと も多かったみたいね...。でも、そんな姿を私達には決して あの子は見せなかったよ!
17歳って言えば、一番おしゃれしたい時だし、タレ ントの"追っかけ" だってやりたい年なんだ。だけど中野は、それをすべて捨て て私達のところに来た! 私にもね、ヒールをしているのが
つらい時期があったし、それは、この仕事を選んだ者には、誰でもさけられない ことなんだ」
こう言ってユウは黙ってしまった。
だがユウは、このあと私にこう言いたかった のではないか? 「私はあの子の 心意気にほれた のよ。あの子を 極悪の星にするためなら、私は(レスラーを)"やめたっていい"って思えたんだ!!!」
こんな後輩に対する思いやりがあったからこそ、ユウは会社の突然の "引退"という決定にも文句を言わず、 納得してリングを去れたのではない だろうか。
引退式もなく、決して派手な功績を残した選手ではなかったが、自分 の座を譲れると思える後輩を見つけてリングを去れたユウは幸せである。
最近のユウは、黒いシマのシャツ姿も板につき、初めの言葉とは裏ハラに、レフェリーとしての気楽な生活をエンジョイしているようである。
ユウは、金髪を黒く染め直し、 "普通の女の子"に戻る準備を始めただ、今、唯一ユウの気がかりは 「花束も音楽もいらない。 地方の会 場だっていいの。自分に区切りをつ けるために、私のためだけの"引退 のテンカウント・ゴング"だけは聞 きたい」
という願いが、いつかなえられるか...ということだけだろう。
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このような記事です。
このインタビュー、ロッシーの作り話じゃない?(笑)
最後の「引退のテンカウント・ゴングは聞きたい」というのは本当だと思うんですが、いまとなっては、以下の点がものすごくウソっぽいです。
①中野を極悪の星にするために引退した
②20歳でやめようと思った
③「2日前に会社にやめたいってはっきり言った」
昨今、レスラーさんご本人たちに聞くと、当時のことをあまり覚えていないので、もちろん本当にクレーン自身が言った可能性もあります。
だが、①はウソでしょう。もし本当ならば「ぶるちゃんねる」で言うでしょう。美談ですよ。
②は、1983年にクレーンのお父さんがなくなっているので、そのときにやめようと思った、という可能性があるし、みんな20歳くらいでやめようと思ったことの一度や二度くらいはあるでしょう。でも、それが引退と結びついているかは疑問です。
③は「ヒールをやめたいと2日前に会社にいった」のならばわかりますが、レスラーとしてノッていた時期にプロレスをやめたいと話した、というのはどう考えてもウソっぽいです。「ぶるちゃんねる」でも「ベビーに転向してもプロレスは続けたい」ようなことは話されていたので、やっぱりウソですね。
ということで、全日本女子プロレスとしては、クレーンの引退を「中野を極悪の星にするために引退」ということにしてしまったようです。
当時としては最もらしい理由にはなりますが、「だったらなんで試合で血だらけになって、ブルにも攻められているんだ」ということにもなるので、煮え切らない記事となりました。
仁王立ちのダンプと、血だらけのクレーンの写真が印象的です。