1985/10 雑誌「デラプロ」ブルのナイスギャルエッセイ

1985年10月号の雑誌「デラックスプロレス」に記事がありましたので引用します。

 

 

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がんばっていれば、そのうち何かがか変わってくる
それだけ、それだけをね、考えてた。

 

おかあさん、泣いてたんだよってくる。
 

「おかあさんがね、あの橋―あの、会社のそばの川にかかってる橋、知ってるでしょあの橋の上に立ってこう言うんですよね」
中野は喫茶店の椅子からのびあがるようにして、目黒川にかかる橋を指さした。
「いつもあの橋んとこで別れてたの。わたしが"さようなら"っていうと、おかあさんが、"今度はがんばるのよ、がんばれるわね"っていうの。橋の上に、おかあさんが妹をつれて立っていて、わたしは橋の手前。わたし、おかあさんが何度も何度も"がんばれるわね、今度きたときは元気だね"って言いながら、うしろを向いて帰っていくところおぼえてる」
「で、あるとき、妹がいったのね、"おかあさんってさ、橋をわたるとき、いつも泣いてんのね"って。おかあさん、橋の上でわたしと別れてから泣いてたんだって」
突然、中野の目が一本の細い線になったかと思うと、彼女はポロポロ涙をこぼしはじめた。
「そのとき、わたし、みんなは旅につれていってもらえるのに、一人だけ残されて、今年はいった新人とゴチャマゼにされて練習していて。

 

毎日、毎日つらくて。
でも、つらくていやだなんてね、誰にもいえなかったし、特におかあさんには口が裂けてもいいたくなかった。
だから、おかあさん、たずねてくるたび、いったいなんで、こんなにおちこんでるんだろうって思って、訳をきいても答えないから、怒るよりしょうがない。
わたしは"ダメなときはダメなのよ"っていって笑ってた。
でもね、おかあさんが泣いてたって聞いたときには、あ、とうとう、泣かせちゃったんだな、わたしのせいだなって思って、悲しくて、もう」

その時期、中野は二つの試練に耐えていた。ひとつはベビーフェースとしての行き詰まり、もうひとつは先輩たちがひとことも口をきいてくれないことである。
 

「それまで、わたし、人に気兼ねするってことなかったんですよ。体、大きいでしょ。それで中学1年のときからプロ入りがきまっていたんで、中学じゅうで有名だったの。男の子にもおそれられてて。
卒業したらレスラーになること決まってたから、勉強なんて、いっこもしない。もともと勉強きらいだったから。で、とにかく、"こわくて悪い奴"ってことで、みんなから持ち上げられてたのね。
こわいってこと、世の中になかったですよね。わあわあ、やりたい放題してりゃ、それですむんだと思ってた。
レスラーっていうのも、自分にすごくあった職業だって思い込んでいて、中学三年間、夏休みには巡業につれていってもらって、デビルさんなんかにすごくかわいがってもらって有頂天になってた」

 

集団のきまりを乱す人間だって

 

だが、外からみる女子プロレスと中に入ってみた女子プロレスは、あまりにもちがうものだった。

「なんでもキマリ、キマリ、キマリ。自由にしていいってこと、ひとつもない。なにがどうあれ、新人は集団でかたまってなくちゃいけない」もともと陽気ではあったけれど、一人きりも好きだった。マイペースにやるのでなくては物事がうまくできなかった。集団生活には不向きなのである。
 

わたしは、中野がデビュー直後、同期6人と一緒にインタビューをうけたときのことを思い出す。寮生活をしていて一番印象的なことは何? ときくと、他の選手たちの、優等生型の答えのあとで、中野はニヤリと笑い、
「生理の周期が同じになっちゃうんでトイレがやたら混みあうこと」と低い、ぶっきらぼうな声でいいはなった
 

ユニークで元気のいい答え、だとわたしは思う。しかし、先輩たちの目にはそうはうつらなかったらしい。「わがまま勝手で、集団のきまりを乱す人間だっていわれた。自分でもやっぱりそういうところはあったと思います」
中野にとって都合の悪いことに、同期生の中に、優等生タイプで先輩のウケが非常にいい人物がいた。小倉由美である

 

ゴンゴンはね、すごく気が弱かったんです。今の彼女をみてると信じられないくらい。おとなしくて、キチンとしているゴンゴンの横を、わたしがブラブラ歩いているだけで"中野は小倉に比べて生意気だ"っていうことになって、それが"中野は小倉をいじめているらしい"ってことになっちゃったんですね
先輩たちは、いっせいに中野と口をきかなくなった。
「思えば、わたしのほうに考えがたりなかったと思うんです。ゴンゴンはおとなしかったし、わたしは遠慮ってことを知らない人間だったし。とはいうものの、
あいさつしても一言も返ってこないって...つらいですよね・・・生まれて初めてつらいってどういうことか・・・わたし、わかったんです」
 

そういう事情から、中野と小倉のあいだには決定的な溝ができてしまった。当然、中野は小倉と一緒に行動したくない。
「先輩に怒られて、一緒にいなくちゃいけないって言われても、言われても、わたし、出来ない。どうしても出来ない。出来ないからまた怒られる。そんなに集団生活がいやなら、早くやめればいいのにって毎日のようにいわれるの。あいさつは返してくれないけど、やめればいいのに、とはいわれる。誰も、わたしにまともにはしゃべってくれない。怒られるか、何もしやべってくれないか、早くやめろって言われるか」

 

中野は童顔である。しかし苦しかったことを思い出しているときには、その童顔に、一種の厳しい表情があらわれることを、そのとき知った。
 

人間は一人で生きていく以外にない


「夜、ねますよね、ねる前に考えるんです。朝がこなきゃいいって。このまんま、眠ったまんま、目がさめなきゃいいって」
こんな、血を吐くような思いをしのである。
ながら、中野は内面の苦しみを、まったく外にあらわさなかった。
「苦しい、つらいっていうことは、すごくはずかしいことだと思ってるの。言って解決するわけじゃないし。がんばっていれば、そのうち何かがかわってくる、と。それだけ、それだけをね、考えてた。
でも、ふと気がつくと、社長室の前に立ってるのね、"やめます"っていいに社長室の前に立ってる。ハッと気がついて寮に帰ったりね」

しかし、選手としても行き詰まっていたこの時期に、実は、中野は人一倍、いろいろな技をおぼえているのである。
 

プロテストも二度おっこちたが、社長に投げ技を教えてもらい、三度目の正直で合格。
巡業の旅においていかれたときには、余った時間を利用して空手を習いにいっている。
中野には、単なる辛抱強さ、とはいえない精神のタフさが感じられるのだ。叩かれても、踏まれても、歯をくいしばって"自分"を生かそうとする。同じように不遇の時代をすごしたとはいえ、立野記代の静かながんばりとはちがう、我の強さを中野はもっているようだ。

 

「あんなに怒られて、怒られたことがひとつのバネになったけど、やっぱり今でもわたし、人間は一人だと思ってるの。人間は集団のいきものじゃないって。最後は自分しかないって。人間は一人で生きていく以外、方法はないと思ってる
 

デビューしてまもなく新人王戦で、中野は小倉に勝った。
しかし、その前日も、中野は先輩たちに生活態度が悪い、とさんざん叱られている。

「あのときね、先輩たちが全員帰りかけたときね、アウさん(ダンプ松本)がふとふりかえったんです。で、わたしをみて、一言"明日の試合、がんばんなね"って声をかけてくれた」
たった一言のダンプの言葉。だがそれは中野にとって何ヶ月ぶりかに聞いたまともな言葉だったのだ。
(井田真木子)

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ブルの新人時代の苦しい時代の話が書かれています。

井田さんはその後も飛鳥にずっとインタビューをしていた有名なフィクション作家ですが、選手の深層をえぐっていた方でした。

ブルはデラプロで今後も連載を持つようになります。1987年にはこの記事のせいで、ダンプと行き違いができてしまうのですが。

 

家族が応援してしていたこと、先輩方にイジメられていたことが克明に綴られています。

イジメていたのが誰なのか、想像できなくもないですが、実名はあげられていないので分かりません。ベビーフェイスはほぼ全員中野を無視していたようです。

その無視の原因が、中野の悪気のない発言、素直に言葉に出してしまう稚拙さから来ていた、とも書かれています。また同期の小倉が可愛くて健気だった(みえた?)ために、余計に比較されてしまったことも災難だったかもしれません。

 

とはいえ、このときに強靭な精神が、後に「女帝」と呼ばれて女子プロレス界最高のスターの一人になる原動力となるわけですから、なにが良くて何が悪いとは言えないですね。

 

最後にダンプから「明日の試合、がんばんな」と言われて何か月ぶりにまともな言葉を聞いたと書かれています。ダンプがこのときに中野をヒールに入れるつもりがあったのかは分かりませんが、素で自分と同じような境遇の中野に自然と声をかけていたのかもしれませんね。