1985/12/20 雑誌「週刊プロレスコミック」精神的に追い詰められた飛鳥

1985/12/20号の雑誌「週刊プロレスコミック」にクラッシュに関する記事がありますので引用します。

 

 

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秘話でつづる オレしか知らない女子プロレス!

クラッシュギャルズの不仲実録

 

長与と飛鳥。クラッシュ・ギャルズと呼ばれ、"いまをときめく"この2人にも、さまざまな葛藤があった。試合や私生活の面で微妙な感情をぶつけあい、そして対立した・・・・・・
 

女同士の微妙な感情
「もう顔も見たくない」

 

現在、人気最高潮の長与千種とライオネス飛鳥。2人は58年8月以来「クラッシュ・ギャルズ」と名乗って、ペアを組み、"正統派対ヒール"という女子ブロレスの流れを変えてみせる!と宣言。一枚岩となって、女子選手の集団の中から飛び出してきた。
結成以来2年と4カ月。いま思えば、いろいろなことがあった。あるときは試合のことで、あるときは私生活のことで、2人は意見しあい、対立したこともあった。

 

殴り合いのケンカはさすがにすることはなかったが、お互いに「もう口もききたくない!」「顔も見たくない!」と感情的になっていた時期もあったのだ。私の知り合いの芸能誌の記者の話だと、あのピンク・レディも解散前は大変な不仲で、楽屋でも口をきくことすらなかったという。
 

女同士の微妙な感情というのは、男にはまったくわからないものだろうし、男の私が何をいっても始まらない。
だが、
クラッシュの2人の場合は、大変サッパリした性格で、悩みがあったり、頭にきたことがあると、すぐにそれがこちらに伝わってくるものだから、彼女たちが感情をもつれさせ、うまくいっていないときは、その事情も原因もすべてわかってしまった。
 

これから書くことは、2人が対立したときの物語である。だがこれを悪意には、決してとってほしくない。いまではスーパースターとなったクラッシュ・ギャルズも、決して一朝一夕に誕生したのではないことを、わかってほしいのだ。
 

「もう千種と同じことはやりたくない」(飛鳥)
2人のクラッシュ・ギャルズとしてのデビュー戦、つまり飛鳥と長与が初めてお互いをベストパートナーとして認めあい、敵に対して向かっていったのが、58年8月27日、東京・後楽園ホールでのWWWA世界タッグ選手権試合であった。
このとき2人は、大森ゆかりとジャンボ堀の保持していたタッグ王座に挑戦したのだが、このタイトルマッチにそなえ、8月の初め、クラッシュは伊豆・稲取で強化合宿を行った。
しかし、この合宿は、従来の女子プロレスのものとは趣を異にするところがあった。それはこの合宿が2人のために、空手をとり入れたものだった点である。

 

当時、女子プロレスとは格闘技リポーターとして接していた山崎照朝氏が、このときはクラッシュのコーチ役として女子プロレスに招かれ、2人の体力強化を担当したのだ。
この山崎氏の略歴を紹介すれば、極真空手の第1回全日本空手道選手権で優勝し、キックボクサーとしても超一流の活躍をした人物である。


当然2人の特訓には、空手のメニューがとり入れられた。蹴り、突き、基本動作の反復・・・。このトレーニングは、小学校時代から沖縄小林流空手を習得し、55年にレスラーとなってからも空手の動作を積極的にとり入れようとしてきた長与千種にとっては、素直に受け入れられるものであった。


だが、飛鳥にとっては、空手はまったく未知の分野であり、その特有の動きに、簡単についていけるわけがなかったのだ。同じことを教えられても、経験のある長与の方が早く、うまメニューを消化していくが、飛鳥はそんな長与を見て、自分の向上が手に取れないことにイラ立つ。


トレーニングが面白く、すばらしい吸収力で空手を自分のものにしていく長与。その一方で、思うように体が動かず、挫折感を味わう飛鳥...。
こんな差がでるのは、下地がある長与と、ない飛鳥の間では、あたりまえのことであった。だが、どうやっても空手では長与に追いつかない当事者の飛鳥にとっては、それは絶望でしかなかった。
「私、千種と同じことはやりたくない。空手はもう、やりたくない・・・」
そういって飛鳥は、あるとき顔をあげずに話すと、彼女の足元に、涙をひとしずく、ふたしずく、こぼしたことがあった。飛鳥はこのとき、精神的に追いつめられ、クラッシュ・ギャルズという存在そのものも否定せざるをえない状況になっていた。
これがライオネス飛鳥のクラッシュ・ギャルズになって、最初の挫折であった。

 

「トモ(飛鳥)は空手がイヤで泣きべそかいてたよなあ」(長与)
 

だが、それる数ヵ月を過ぎると、飛鳥の心に大きな変化がでてきた。体が自然に動く試合になると自分で信じられないくらい、体が軽やかに動くようになり、足も高く上がるようになった。空手の特訓は決して無駄ではなかったのだ。
 

長与と考案した2人がかりのキックも、面白いように決まるようになった。
そして蹴り技を得意にしてい長与に対し、飛鳥は相手をロープに飛ばしてのチョップ、正拳攻撃をする際に、空手のダイナミックなフォームを取り入れてみた。
そして、これが大成功。長与の華麗ともいえる軽やかなリングの舞いに対し、飛鳥は力強さと重さを強調するプロレスを、空手をとり入れて完成させていったのである。
長与と同じ利用法だけにこだわることなく、飛鳥には飛鳥にあった空手を見出したとき、彼女はリングの闘士として大きく成長していた。


59年春、このときは飛鳥の空手に対する憎しみの気持ちはすでになく、クラッシュ・ギャルズとしての存在も落ちついてきて、精神的にも余裕のある日々を過ごしていた。
「ねえ、トモ(飛鳥の本名からついたアダ名)、トモは半年前は空手がイヤでイヤで、泣きべそかいてたよな」
「うん。あのころはね、私、千種と同じ空手しか見えなくなってしまって、どうしたらいいかわからなかったの。でもいまは、空手を習ってよかったと思ってる。私は私なりの革命戦士としてのリングでの表現方法を、空手の中に見つけることができたんだから...」
こう話してくれたときの飛鳥は、最初照れるような仕草をしたが、空手の話になると顔を紅潮させ、まるで自分の恋人のことを話すような表情を見せた。飛鳥にとってはこのとき、空手が恋人であったに違いない。

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クラッシュ結成から、山崎照朝先生に空手を習うときの飛鳥の苦悩が綴られています。

長与はもともと空手道場に通っていたため、最初は空手素人の飛鳥とかなり差があったようです。長与が空手では圧倒的に型ができていて、飛鳥は初期段階ではその差に挫折したようです。さらにプロレスでは飛鳥が圧倒的に先を行っていたので、プライドが傷つけられたのかもしれません。

 

そんなこんなで嫌々ながら空手の練習をし続けるうちに、飛鳥は持ち前の運動神経を活かして、空手を見事にモノにしたようです。

 

しかし空手はもともと長与の考案したもので、飛鳥のプロレスとは離れていたものだったのでしょう。

すでに初期段階から「口もきかない」、「顔も見たくない」という仲の悪さはあったようです。1986年になるとこれがもっと表面化してきますが、実はクラッシュ結成当初からギスギスしていたことは確かのようです。

 

ピンクレディを例にしていますが、だいたい同期のペアというのは仲が悪くなりますから(ダンプとクレーンもそうだし、立野と山崎もしばらくは仲が悪かったみたいですし)、先輩と後輩のペアのほうがいいのかもしれませんね。