進路指導室に呼び出されたハルユキは…?
登場人物
ハルユキ。小柄で太った体型。性格は内向的。
菅野(すげの)。ハルユキの担任で熱血教師。
進路指導室は、職員室の奥に別室として設けられている。
普段はその名の通り、高校進学などの進路の相談などに使われるが、
時として、問題のある生徒を尋問するときにも使われていた。
ハルユキは、進路指導室の扉の前にたどりつく。
少し重そうな扉を軽くノックすると、中から男の教員の声が響いた。
「入っていいぞ」
少し熱血気味の声は明らかに、担任の菅野(すげの)のものだった。
ハルユキは扉の向こうの人間が、担任の菅野だったことで、内心はホッとしていた。
もし、生活指導の先生に呼び出されたとなると、色々と面倒なことが多い。
もっとも、ハルユキのような影の薄い生徒が、生活指導の先生に呼び出されることなど皆無なのだが。
扉をあけて、中に入る。
普段あまり使われていない部屋なのだろうか、少し空気がひんやりとしていた。
部屋は縦に細長くて、奥に窓がある。
両側は進路調査用の資料が詰まっているロッカーが、所狭しと並んでいる。
ふと正面に視線を送ると、菅野の顔がそこにあった。
彼はすでに正面の四角いテーブルに堂々と座っており、
その表情は少し強張っていたが、なにかを話したそうな顔に見えた。
ハルユキが菅野の対面に座ると、すぐに彼が切り出してきた。
「おい、有田」
「はい」
菅野は椅子にドッカリと座って両腕を組み、ハルユキを説得するような口調で話を続けた。
「実は先生はこう見えて、中学のときはけっこうイジメられていたんだ」
「は…はぁ…?」
「だからイジメられる側の気持ちが分かるぞ」
「……」
進路指導と全く関係ない話だった。
それよりも、菅野の口から出た『イジメ』という言葉に対し、
ハルユキは自分の何かが見透かされているような気がして、首をすくめた。
さらに菅野は、立ち上がってにぐりよってくる。
「先生、あの…」
「うん。よーく分かる!」
「いや、だから…」
「いま困っていることがあるだろう? 先生に話してくれないか?」
突然の菅野の発言に、ハルユキはゴクリと唾を飲み込んだ。
(一体、これはどういうことなんだ…)
ハルユキは目の前で起こった予期せぬ出来事に対処できずに、表情が固まっていた。
担任の菅野が、自分がイジメられていることに気がついたのだろうか?
いや、菅野は熱血教師だが、生徒の細かいところに気がつくようなマメな先生ではない。
どちらかというと、生徒の自主性を重んじるタイプ、
悪く言ってしまうと、自由放任主義の教師なのだ。
だとすると、誰かがイジメのことを菅野に話したのだろうか?
ハルユキは頭の中で、該当する人間の顔を思い浮かべた。
友達が多くないハルユキにとって、その該当する人間はただ1人しか思いつかなかった。
(チユだ…! チユが菅野にチクったのか…!)
──チユリが、菅野にイジメのことを話した。
まず間違いないだろう。
ハルユキは、チユリが勝手にイジメのことを菅野に告げたことに対して、あまり良い気分にはなれなかった。
女の子に助けてもらうなんて、男として格好悪すぎる。
それに情けない。
ハルユキが苦悩に顔を歪ませていると、菅野の声が耳元に届いた。
「さぁ、有田。先生に話してみろ」
ハルユキは学校の教員の中で、菅野のことは嫌いではなかった。
といって、特別に好きというわけでもない。
菅野は体育会系で、他の先生よりもざっくばらんとしており、比較的話しやすい先生というだけだ。
だから荒谷のことを話せば、菅野ならば解決してくれるかもしれない。
そんなことも、ふと脳裏によぎった。
しかし、ハルユキはチユリが勝手に告げ口したことが、どうしても納得できなかった。
ハルユキは座ったまま、視線を菅野に送る。
低いトーンで呟いた。
「あの…その…誰にボクの事情を聞いたんですか?」
「誰にも聞いていない」
「でも、ボクがイジメられていることを、前提に話をしているようですけど…」
「そうだ。イジメられているんだろう? 話してみろ」
ハルユキは菅野から、わずかに視線をそらす。
困ったように頬をかいて、話を続けるか迷った。
本当にイジメのことを、話してよいのか?
もし話したら、報復として荒谷からもっとイジメられるのではないか?
菅野がずっと自分のことを守ってくれるならば、
イジメのことを話しても良いが、とてもそこまで親身になってくれるとは思えない。
そんな疑念が頭の中に渦巻き、押し黙ってしまった。
「誰にイジメられているんだ?」
熱血教師の悪い癖なのだろうか、
菅野はハルユキの気持ちも知らずに、直球の質問を投げてきた。
「……」
さらに沈黙するハルユキ。
一呼吸してハルユキが視線を戻すと、菅野が焦れたように顔をにじり寄らせてくる。
その顔は怒っているのではなく、不思議と柔らかい感じがした。
菅野からは、正義感と熱意だけは伝わってくる。
ハルユキは、そのことに対して悪い気はしなかった。
「どうしたんだ、有田?」
「……」
このまま黙っていてもラチが明かない。
ハルユキは「はぁ」とひとつ大きな溜息をつき、細い声で切り出した。
「ボクのことを話す前に、先生に質問させてください」
「おお、いいぞ」
「イジメのことを誰に聞いたのか教えてください」
「誰もおらん」
「じゃ、どうしてイジメられていると思ったんですか?」
「それは…その…」
今度は菅野の口調が変わり、なぜか押し黙ってしまった。
不審に思ったハルユキは、さらに問いただした。
「どうして質問に答えられないんですか?」
「それはだな…俺はお前のことを生徒として心配しているんだ」
「はぁ…」
「だから、お前のことを少し調べてみたんだ」
「調べる…?」
一体、何を調べたというのか?
普通、教師が1人の生徒のことを事細かに調べることはしないだろう。
ということは、イジメ以外のことで、なにか悪いことをしたのだろうか?
ハルユキは、心のなかがざわざわした。
不安になったハルユキは、率直に尋ねた。
「それってボクの身辺調査でもしたんでしょうか?」
「そ、そんなことをするわけがないだろう。先生はストーカーではない」
「別にストーカーだなんて言っていませんよ」
「いやその…なんだ…有田は俺の大切な生徒だから、少し調べただけだ」
「じゃ、何を調べたんですか?」
「調べたというのは言い過ぎた。
最近、元気がないようだから、もしかしてイジメられているのではないかと思ったんだ」
「さっきと言っていることが全然違うじゃないですか?」
明らかに菅野の発言がおかしい。
イジメをチクったチユリのことを、かばっているのだろうか?
そうだとしたら、菅野にとっては、自分よりもチユリのほうが大切だということか?
そう考えたとき、ハルユキは無性に腹が立ってきた。
ハルユキは語気を荒げる。
「先生は結局、ボクのことはどうでもいいんでしょう?」
「そんなことはない」
「倉嶋ですよね?」
「何がだ?」
「……。もう一度いいます。倉嶋チユリが話したんですよね?」
「倉嶋がどうして出てくるんだ」
菅野は、なぜかイジメの情報源であるチユリのことを認めようとしない。
その煮え切らない態度に、ハルユキは菅野を睨むように話した。
「すみませんが、ボクは先生のことを信用できません」
「なぜだ? 俺は有田をイジメから守りたいと思っているんだぞ」
「本当はクラスにイジメがあると、先生の評価が悪くなるから、口封じしたいんですよね?」
「そんなわけないだろう」
「ならばどうして先生は倉嶋を守るんですか? ボクのことをコソコソと調べているんですか!?」
「倉嶋? なにを訳の分からないことを言っているんだ」
「訳が分からないのは先生のほうですっ!」
「おい有田。先生は真剣なんだぞ。きちんと話してくれ」
「だから話しているじゃないですか。もういいですっ!」
ハルユキにしては珍しく頭に血が上っていた。
同時に、虚しい気分にもなった。
それは担任の菅野への不信感。
菅野を全面的に信用しているわけではないが、
他の先生よりは、自分の気持ちを理解してくれるのでは…という期待はあった。
しかし、菅野はチユリのことを不自然にかばっている。
所詮、男子生徒よりも、女子生徒のほうがかわいいのだろう。
菅野に相談したところで、イジメが解決するようには到底思えない。
そう考えたとき、ハルユキは悔しさのあまり、机の下で拳でギュッと握りしめた。
悔しさだけが残った。
「まぁ、落ち着け」
菅野はテーブルからスッと立ち上がり、ゆっくりと窓に向かって歩き始めた。
タバコを一本、ポケットから取り出して、慣れた手つきで口元に運ぶ。
フーッと一服しながら、背中でハルユキに話しかけた。
「有田。お前、やっぱりイジメられているんだな?」
「……」
「学校にも社会にも、イジメはある。人間が集団になればイジメは必ず起きるものだ。
教師の世界にもイジメがあるんだぞ。実は俺も校長からよくイジメられているんだ」
「……」
菅野はハルユキに背を向けたまま、さらに話を進めた。
「俺はな、イジメられたときに夕陽に向かって叫ぶんだ。
『校長のバカヤロー』ってな。そうするとなぜかイライラした気分が吹っ飛ぶんだ。
有田、お前も俺と一緒に河原で夕陽に向かって、思いっきり叫んでみろ。そうすれば…」
「先生は全然分かってないっ!」
菅野の会話が終わらないうちに、ハルユキは怒声を発していた。
「先生は分かっていない…分かっていない…本当に分かっていない…」
最初は怒りに震えるような声だったが、徐々に悲しみの混じった声に変化していた。
ハルユキの体は震えが大きくなり、やがて嗚咽へと変わっていく。
「うっ…ううっ……」
「お、おい、有田?」
突然涙を浮かべて声を詰まらせるハルユキに、菅野は動揺した。
「先生の話していることは所詮、綺麗ごとなんです。
先生は本当にイジメられたことがあるんですか…?」
「やはりお前はイジメられているのか?」
「ええ、イジメられていますよ…。先生の知らないところでたっぷりと……」
「俺も気持ちは分かる。相談に乗るぞ」
「気持ちが分かる…?
ウソだ。本当にイジメられたならば、本当にあの地獄を経験したのならば…。
夕陽に向かって叫ぶなんて、そんな青春ドラマみたいなことで解決するわけがない。
殴られれば痛いんです。友達が哀れな目で見るんです。心が…痛いんですよ…。
ボクが話していることが先生に理解できますか…?」
「そ、それは…」
「理解できませんよね…。
毎日泣き続けて朝はいつも目が真っ赤に腫れているんです…。先生はそんなことありますか?」
「……」
「中途半端にボクのことを助けないでくたさい。ボクが余計にイジメられます…」
「有田…」
「じゃ、ボクは失礼します」
「ちょっと待て、有田!」
「もうボクに構わないでくださいっ!」
ハルユキは目に涙を一杯に溜めながら、進路指導室を後にした。
次回をお楽しみに。